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日光道中・奥州道中 その9「ようやく着いた最初の宿場 ここで呑むか 先へ進むか(千住宿 本陣)」

 かつての千住宿の中心、今の千住本町商店街へ入ります。
 街道沿いの広場には千住の史跡などが詳しく記された地図が描かれています。

日光道中からは多少離れた場所も含め、千住の見どころが盛りだくさんの地図です。


地図に描かれた名所から一つ、「伊豆長八鏝絵」の稲荷神社。
「橋戸稲荷」と呼ばれています。
境内の「橋戸稲荷神社縁起」石碑によると、延長四年(西暦926年頃。平安京では「菅原道真の怨霊」騒ぎ、関東では「平将門の乱」の10年ほど前の年代)に創建され、延徳二年(西暦1490年頃。関東では各地の勢力による合戦や内紛が相次いだ)に本殿が建てられたとありますが、境内の案内板では、創建を延徳二年としています。


橋戸稲荷神社に伝わる「伊豆長八の鏝絵のキツネ」のレプリカ。
「本物」は本殿の扉の内側にあり、年に3回程度開帳されます。
画像は、拝殿の扉で見ることのできるレプリカです。
「伊豆長八」は、江戸時代後期から明治時代にかけて、「左官」の技術を活かして漆喰を鏝(こて)で細工して作り上げる「鏝絵」作品で活躍した伊豆出身の人物です。


 キツネの誘惑(?)の寄り道から街道に戻ります。
 さきほどの地図の広場には、「千住宿 問屋場 貫目改所 跡」の標柱や案内板があります。

 ここは、千住の宿場町の中でも、幕府が街道を管理・利用するための重要な施設のおかれた場所です。
 「問屋場(といやば)」は、幕府の命令や許可を受けて目的地へと旅をする公的任務を帯びた旅行者に人足や馬を提供したり、前の宿場から運ばれてきた「幕府による公的な荷物や書類」を受け取って次の宿場まで届けたりする役割をしていました。
 「貫目改所(かんめあらためしょ)」は、大名や公的旅行者が荷物運搬に馬を使う際、その荷物の重さが馬の使用料金の基準となるため、荷物の重さを量るために設けられたものです。
 「問屋場」は、五街道など主な街道の宿場には必要なものでしたが、「貫目改所」は、当時の公用旅行者の荷物が途中で極端に増減するわけでもなく、目的地や通行経路もある程度決まっていたため、宿場の中でも限られた場所、東海道は品川・府中(駿府)・草津、中山道は板橋・追分・洗馬、甲州道中は内藤新宿と甲府柳町、そして日光・奥州道中は千住と宇都宮、つまり、各街道の起点と終点近くの宿場や、他の主要街道との「追分」の地(追分、洗馬)、公的旅行者の目的地となることも多い要所(府中、甲府)などです。
 

画像は、中山道の醒井(滋賀県)に残る問屋場の建物。
現存する問屋場は少なく、醒井のほか、奈良井・今須(中山道)、小諸(北国街道)といった数か所に限られるそうです。
醒井と千住では、宿場の規模も、問屋場を建てられる場所の立地条件も異なりますので、あくまでも参考としての画像です。

 そして、賑やかな商店街をさらに進み、JR等の北千住駅からの道と交わる交差点を過ぎたところで、「千住宿 本陣跡」に到着します。

街道沿いの「玄関」から奥へ細長く伸びる間取りが特徴的な宿場町の街並み。
この案内板は平成九年とあり、銀行名が「古地図」となってしまっています・・。
銀行の名前はさておき、銀行支店の大きさ(面積)と比べても、かつての本陣の大きさを感じられそうな地図です。

 老舗酒場や横丁なども見え隠れする千住の町。
 日光・奥州道中の最初の宿場町まで到着しました。
 (続く・・・はず)

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