日光道中・奥州道中 その11「四方に伸びる旅路の道、八本うねうね蛸の足(千住宿)」
千住の宿場をゆるゆると歩きます。
何かの気配を感じて道の右側をチラッと覗いてみると、岩陰から何かを覗いているヤツが・・・。
ただならぬ視線の覗き見、視線の先には何が・・・と追っていくと・・・
たこ~~~~!
https://www.city.adachi.tokyo.jp/koen/takosan.html
(参考 足立区のタコ滑り台などをまとめたサイト)
このタコ滑り台がある公園は「千住本町公園」と呼ばれ、滑り台などの遊具のほか、かつての宿場に設けられた「高札場」に関する案内板もあります。
案内板にも書かれているとおり、千住の宿場は、寛永二年(1625年)に宿場町としてつくられた(街道沿いに、街道から奥に向かって細長く伸びる区画の町が設計され、近隣の村などから宿場町を営む人々が集められた)そうです。
日光道中は、元和三年(1617年)に徳川家康の遺骸が日光に移された頃から整備が始まり、千住宿がつくられる前年の寛永元年に、将軍職を継いで間もない徳川家光により「日光山造営法度」が出され、日光東照宮など「日光山御宮」の造営が始まったことにより宿場などの整備がさらに進んだともいわれています。
千住本町公園から少し進むと、花壇のある道沿いの角地に、「旧水戸佐倉道」の道標があります。
ここで日光道中と分かれる「水戸佐倉道」は、次の宿場町「新宿(にいじゅく、今の葛飾区内にある)」で、水戸へ向かう道と佐倉へ向かう道に分かれます。
ここから水戸や佐倉へ向かう街道(水戸街道、佐倉道)は、江戸時代、五街道に準じる重要な街道として整備されていました。
水戸街道は、水戸の先で「浜街道」などといわれる道が続き、今の宮城県岩沼市で奥州道中と再会します。
そして、水戸佐倉道との追分から少し歩くと、今度は「下妻街道」との追分の道標があります。
下妻街道は、北千住から北北東の方面に向かい、吉川、野田、水海道、下妻、下館、益子などを経て喜連川まで通じる(喜連川で奥州街道と再会する)といわれる街道、日光道中などよりも古い時代に北関東から奥羽へと通じていた古道に由来するともいわれる街道です。
ただし、記録が多く残されている日光道中や水戸佐倉道などと比べて、細かい道筋については諸説あり、入手しやすい街道ガイドの本も現時点では見当たらない街道です。
千住の宿場もこのあたりまで。
かつては、千住宿の北側、このあたりが、江戸から伸びてきた道が、日光道中、水戸佐倉道、下妻街道の三つの街道に分かれる交通の要所でした。