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狂気をもたらす西洋の月と、和歌に詠まれた万葉の月




2021年の中秋の名月は、9月21日です。
十五夜にお月見に中秋の名月と、夜空の月を題材にした言葉や四季おりおりのイベントは、日本では昔ながらの風物詩です。

一方、西洋の月は、うって変わって「狂った」とか「気が触れた」などの意味で使われます。
たとえば“lunatic”(ルナティック)という言葉の意味を辞書で調べると、まさしく「精神に異常をきたしている」とか「狂っている」とか「狂気」の‥‥といった言葉が並びます。

日本人には意味不明な解釈ですが、西洋では“満ち欠けをくり返す月の変化”が、精神異常をもたらすようなイメージで受け取られているみたいです。
それ以外にも、夜に輝く月が人間の心の奥底まで照らして、隠されている人間の狂気を呼び覚ます的な解釈もあるようです。

出典は中世のヨーロッパまで遡るようで、西洋では昔から「月の光を浴びると気が狂う」という説がまことしやかに信じられてきたことや、満月の夜に変身する狼男の伝説などが起源だという説もあります。

有名なところでは、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の中にでてくる「inconstant moon」(不実な月)も、月が良い意味で使われていない典型です。

これは、ロミオがジュリエットへの愛を月に誓おうとするシーンでのジュリエットの言葉です。

O, swear not by the moon, th' inconstant moon,
That monthly changes in her circle orb,
Lest that thy love prove likewise variable.

直訳すると、「見るたびに形を変える不実な月に誓ったりしないでください。あなたの愛までも、そんな不誠実なものであってほしくはない‥‥」的な意味になります。

こんな感じで西洋の月は、移り気や心変わりなど、不誠実や裏切りの象徴のような扱いにもなっているようです。
どちらにせよ、あんまり良い意味で使われることは少なく、総じて解釈もあまり良くありません。


一方、日本では、月は西洋とは真逆の扱いです。
なにせ万葉の昔から21世紀の今に至るまで、毎年「お月見」イベントをやっている国ですから。

月といえば、日本ではウサギが餅をついているのが定番で、十五夜にはススキを飾ってお団子をそなえます。春の桜や冬の雪と同じく、秋の月を眺めても歌を詠み、お酒を飲む。ハンバーガーだって毎年シーズンになると月見バーガーが登場するお国柄です(笑)
ひょっとして、月見バーガーなんてマニアック(?)な商品があるのは日本ぐらいで、これって欧米人から見たら日本人(と、某世界的バーガーチェーンの日本支社)は、みんな気が狂ってるように見えてたりして?
いや、そもそも外国人には、月見バーガーのどこが月見なのか理解できない可能性大かも?

このほかに月といえば、やはり百人一首も定番ですよね。
ぜんぶで百首をセレクトした百人一首の中に、月の和歌は、なんと「12首」もあるのです(日本人どんだけお月さま好きやねん?)

ちなみにわたしの好きな、というかコレは絶対にとる「札」のひとつに「秋風にたなびく雲の絶え間より 漏れ出づる月の影のさやけさ」という、左京大夫顕輔の秋の月を詠んだ和歌があります。
百人一首をする時と、秋の夜空を見上げて天体観測なんぞにおよぶ時には、必ず浮かんでくる和歌がこれです。

ヘッダーの画像はその和歌に近いイメージの写真を選んでみました。
去年の10月にわたしが自宅のベランダから撮影したもので、一緒に写っているのはちょうど接近していた火星です。
写真は火星がわかりやすいように拡大してあるので、月がこの大きさに見えたわけではありません(念のため)
月の光が雲に反射して明るく見えてますが、撮影時刻は午前2時ごろです。


百人一首が出たことだし、せっかくなので、12首をすべて書きだしてみます。

百人一首の月を詠んだ和歌


天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな

月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど

有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし

朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪


夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ

めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな

やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな


心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ

ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる

なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな


わざわざ「夜半の月」「有明の月」という言葉で、深夜に明るく輝く月や、明け方に見える白い月を区別するのも、日本人らしい細やかな感性がうかがえます。
ちなみに「有明の月」は「夜更けにでて明け方近くまで白く光る月」のことで、寂しい心情を表す言葉として用いられることが多かったようです。

「吉野の里にふれる白雪」の白雪も本物の雪ではなく、「月の白い光を白い雪に見立てている」そうです。
これは中国の漢詩でも用いられていた比喩で、漢詩がブームだった平安時代前期の和歌によく引用されたという説があります。
昨今の楽曲と同じく、和歌にも当時のブームがあって、それが和歌に反映されていたり、人気の技法などもあったと聞くと、古典に苦手意識があるひとも、ちょっと親しみが出てきませんか?


ところで西洋では、月のように夜毎かたちを変えたりしない「星」については、かなり好意的な解釈が散見されます。
小説や子ども向けの絵本などにも星は頻繁に登場して、日が暮れてから道に迷った時も、明るく輝く星が位置を教えてくれるのです。
だだっ広い草原や一面の麦畑、起伏の少ない低い丘が連なり、地平線まで一望できそうな「平地」がつづくヨーロッパの地形なども関係しているのかもしれません。
そういう広々とひらけた土地で夜空に輝く満月を見ると、気が狂ったり狼に変身しそうな心配をせずにいられない西洋人は、月よりも星を眺めることのほうを好んだのでしょうか。

これはわたしの想像ですが、日本の場合は、昔はそんなひらけた土地のほとんどが水田や畑になっていたはずなので、ヨーロッパの草原や麦畑を歩くようなわけにはいきません。
なので、日本人は月あかりをたよりに田んぼのあぜ道を歩いて、夜空の月や水田に映る月を見ては和歌なんぞを読んだりしていたのでは?

日本だと中天に煌々と輝く満月、あるいは山の端にかかる半月が、闇や夜道を照らす場面でも、西洋では森の木々の隙間に垣間見える明るい星が進むべき方向を教えてくれ、黒々とした森の上空には満天の星といったイメージであるようです。
日本人にとっての月のように、西洋では昔から、夜空に瞬く明るい星々のほうに親しんできた歴史があるのかもしれませんね。


ちなみに日本にも星を詠んだ和歌はあります。

「月をこそ眺めなれしか星の夜の 深きあはれを今宵知りぬる」 建礼門院
「天の海に雲の波たち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ」 柿本人麻呂

星を詠んでも、やっぱり月もセットで出てくるんですね(笑)
万葉のむかしから、日本人にとっての月は、どうあっても別格であるようです。

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