今回は、建築というハード面ではなく、そこに住む人について考えてみる。僕はあえて大きさの異なる5戸を建設し、既存の母屋をリノベーションして、そこを主にコモンスペースとするコレクティブハウスとしようと考えている。コレクティブハウス自体については既に書いたが、今回はそこに住む住人がどんな思いで暮らしているのか、どういう種類の人が住む傾向にあるのか、そしてそれが持つ現在の日本にとっての意味を考えてみたい。
SYNODOSという有料電子メディアが4回にわたって「コレクティブハウスで生きる若者たち」という記事を連載し、20代〜30代前半の住人2人(AさんとB
さん)と住むことを考えている1人(Cさん)へのインタビューを行っている。それを参考にしたい。
記事は若者が対象ではあるが、それ以外の世代にとっても参考になると思う。
1)なぜあえて一人暮らしではなく共同生活を選ぶのか?
かつては、家族のもとを離れ一人暮らしをすることは、一種の憧れだった。誰に気兼ねするでもなく、すべて自己完結(お金はともかく)できる開放感は僕にとって格別だった。(半端ではあったが)「自立」は成長を促すとも考えていた。
ただ、当時はまだ生活する上で、一人暮らしには不便なことも多かったように思う。しかし、現在そうした不便さはほとんどなくなり、一人で生活することがどんどん容易になってきている。そうした時代において、自由を謳歌したいはずの若者が、あえてなぜ他者と暮らしたいのか?
かつて(スマホもなかった!)に比べ、家族の縛りが緩くなっている現代において、一人暮らしは「解放感」や「自由」、「自立」の手段ではなくなっている気がする。社会全体に「寂しさ」が蔓延しており、「ひとり」のメリットよりデメリットの方が上回る若者も確実に存在する。そうした人にとっては、かつては多くが自己完結できることは満足に結びついたが、今は自己完結よりも(家族以外の他者との)「つながり」を基盤にした生活の方が好ましいようだ。それが、「他者を介さない自己完結できる自由な生活は果たして幸せなのだろうか?」という疑問につながっているのではないか。
それは、社会的生き物(サピエンス)である人類にとって自然なこと。本当の「自立」とは、他者を必要としないのではなく、多様な他者とともに「共生」できる力を持つことだ。自己完結をよし(地縁血縁の縛りからの反動ゆえ)としたかつてが不自然だったのであり、正常に戻りつつあるようにも思える。
また「単身者用家電を所有するのは不合理」との意見も、至極真っ当だ。所有すること(特により個別に)に喜びを感じるのは高度成長期のメンタリティであり、成熟してシェアリングエコノミーが浸透する現在においては、一人一台の設備は不合理だと僕も思う。
過去に縛られず時代の変化に敏感な若者が、一人暮らしを避けて共同での住まいを選ぶようだ。
2)なぜ、他の共同生活形態ではなくコレクティブハウス なのか?
一人暮らしに疑問を持ったとても、シェアハウスやソーシャルアパートメント(交流に重点を置き共有施設を設けるリアルSNSのイメージ、専門会社が運営)ではなく、なぜコレクティブハウスなのか?
一人になって孤独を楽しむ、すなわち自分自身との対話は不可欠なようだ。そうした内省の時間が取れるがゆえに、他者とフェアな関係を結ぶことができ、またそれを楽しむこともできる。こうした、空間と時間の両面で、「個」と「集団」を自分にとって好ましいバランスに設定できることが、コレクティブハウスを選ぶ理由のようだ。
3)コレクティブハウス の特徴の一つに自主管理があり、それなりの負担がある。それについては、どう感じているのだろうか?
一般に賃貸住宅では専有スペースだけを借り、共有スペースは管理会社へ管理費を支払って管理を委託する。コレクティブハウスでは、共有(コモン)スペースが占める比率が高く、そこは住民で構成される管理組合が管理する。また、共同生活に必要な活動を住人が分担し担当する。月一回の定例会で、さまざまな話し合いがなされる。管理会社に丸投げするのではなく、住人が自主管理するのは、なかなか大変なことだ。
確かに負担は感じているものの、それを自分の成長の機会や、賃貸でありながら自分の意志で暮らしを快適にすることができる可能性があると前向きに捉え、集団での合意形成のプロセスも楽しめるような人が、コレクティブハウスを選んでいるように思える。
他者との暮らしにおいて、安全も信頼も大切だ。どちらも「相手は自分にひどいことをしないだろう」という期待を持つことだが、安全と信頼は異なる概念だ。「安全」とは「相手は自分にひどいことをすると損をするのでしないだろう」との期待(国家安全保障がまさにそう)であり、「信頼」とは「相手の人格や相手が自分に対してもつ感情についての評価」に基づく期待。日本のムラ社会では、村八分のような「安心」が維持されるメカニズムで担保されているが、「信頼」構築は不得手だ。我々日本人は、信頼構築能力が低いと言われている。信頼構築には手間がかかる。コレクティブハウスで自主管理をすることとは、苦手な信頼構築を実践しながら学ぶことなのかもしれない。
コミュニティでは、他人に無理やり力で言うことを聞かせることはできないため、一般に多数決は採用されない。コレクティブハウスでも定例会で多数決はとらず、全員が合意するまで話し合いは続けるそうだ。考えてみれば、多数決とは何と楽な制度だろう。
4)コレクティブハウスでは多様性が重視される。年齢含め自分との違いが多い住人たちと暮らすことに抵抗はないのだろうか?
他者が自分と大きく異なるということには、関係構築が難しいという面と、異なるからこそ自分にないものを持っているのであり、そこからたくさんのことが学べるという、両面がある。たくさんのことを学ぶためには、難しい面と折り合いを付けていかねばならない。どんな局面においても、そういうスキルは必要だ。自分だけに閉じることなく、他者から学んだり他者に自分の知識やスキルを進んで提供できるような人がコレクティブハウスには集まっているようだ。
5)コレクティブハウスには、どのような人が向いていると考えているのだろう?
実際に住んでいる若者は、コレクティブハウスが、誰もが快適に暮らせるバラ色の住まい方だと思っているわけではない。やはり、向き不向きはあるようだ。
暮らしにある程度の時間や意識を向けられるだけの精神的余裕があることが、必要条件になりそうだ。その上で、住まい方を「他人まかせ」ではなく、主体的に徐々にでも快適なものにしていきたいとの意志を持っている人。そして、規則や監視による「安心」を潔しよせず、自ら「信頼」を構築することを厭わない人。
さらに、自分自身の考えを持ちながらもそれも拘泥せず、自分自身を他者に対して開くことができ、どんな他者からも何かを学びたいと考える人。一言で表せば、精神的に「しなやか」な人であろうか。年齢に関係なく、自分をしっかり持った成熟した人たちだと感じる。
これらは、日本人が最も苦手とするところだろう。入居時にこうした条件を備えた人は多くはないだろうが、共同で住むうちにこうなっていたいとの願望を、おぼろげでも持つ人なら向いているのかもしれない。
今後、ますます多様性が求められるだろう。そうした社会で生きていくための、実践トレーニングの場ともなり得るのではないか。そこで、信頼に基づいた相互依存する生き方を習得できれば、日本どころかグローバルでも活躍できると思う。