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創作大賞ファンタジー小説部門「ファイヤー!ファイヤー」《3》

堀口安恵の悩み

 ああ、離婚したいな。
最近いやもうずいぶんと前からそう思っている。
子供が中学に上がる時なら、苗字が変わっても大丈夫かな。そう思ったのに、長女は高校生2年生、長男は中学3年生になった。
今は長男が受験だし、こんな時に両親が離婚したら長男の受験に支障が出るしな。
でも来年になれば、今度は長女が受験で。
そうこうしていると今度は、また長男が大学受験になって。
そう考えると、本当に離婚できるのは4年後か。
そこまで、持つのかしら。
介護施設の夜勤明けの疲れた体で、団地の階段を買い物袋を両手に抱えて上がって行く。
息を切らして玄関を開けると、大きなスニーカーが玄関にあっちとこっちに脱がれている。
キッチン兼用のダイニングテーブルに買い物袋をひとまず置くと、奥に襖一枚でつながる
部屋を覗くと夫の康之が、スエットにTシャツ姿のまま寝っころがって、スマホをいじっている。
胸騒ぎがするが大きく深呼吸して、意識して明るく「おはよう。あれー。仕事じゃなかったっけ?」
康之はめんどくさそうにスマホをいじりながら「やめた」
頭に血が昇り大声を出しそうになるが、ぐっとこらえて努めて冷静を装って「やめったって。だってさ。まだ行きはじめて……」いいながら息苦しくなり、その後の言葉が出てこなかった。
康之は全く悪びれもなく「また見つけるよ。ちょっと、出かけてくるわ」と起き上がり、部屋を出て行く。
康之と出会ったのは、私が働いていた電気量販店に康之が入社してきた。
当時私は29歳。5年間付き合っていた彼氏に他に好きな人ができたからと一方的に別れたばかりで傷心中だった。
8歳年下の康之は、人気のアイドルグループのチャッキー君をちょっと崩したルックスで、私にとても懐いてきた。
最初は弟のようでかわいい子だなと思い、仕事を教えていたがミスも多く先輩の男性社員に怒られると、その日は決まって私を食事に誘い愚痴るのだった。お勘定は入社したばかりで経済的に大変だろうと、いつも奢っていた。
そうしてなんとなく付き合うようになり、決定的だったのが妊娠してしまった。
まさか8歳年下の康之と結婚するとは考えていなかったが、中絶するわけにもいかずに結婚した。
結婚し子供が産まれるというのに康之は、勤めていた電気量販店を辞めた。長女が生まれてしばらくは私の実家で居候していても、康之は定職につかなかった。
両親も働かない康之に困ったが、面と向かっては何もいわずにいた。
団地が当たって引っ越しをしてからも、康之はなかなか定職につかなかった。
しばらくは両親が経済的に援助してくれていたのも、甘えてしまう原因だったのだろう。
あの時にいっそ娘と2人で生きていくことも考えたが、また私は妊娠してしまった。
長男を出産して、今度こそは康之が仕事に就いてくれると信じていた。
しかし康之は子供が産まれても、子供のままだった。
仕事が見つかってもしばらくすると、様々な理由を付けて辞めてしまう。
その度に慰めたり、励ましたりするが、それも功を奏さなかった。
実家に頼ってばかりにもいかず、幼い2人の子供を保育園に預けて、介護施設で働き始めた。
両親も2人の孫がかわいそうだからと時折預かってくれたり、何かと経済的な援助をしてくれた。

ああ、離婚したいな。

介護施設で働き保育園のお迎えに行き、2人の子供を連れて夕飯の買い物をしながら、今も家でテレビを見てるか、ゲームをやっているであろう康之の姿を想像してそう思う。
こんなに毎日自分ばかり大変な思いをしているのにどうして、康之と離婚しないのだろうか。
世間では女性が専業主婦で、経済力が無いから離婚できないとか。
夫はATMだなんていう、友達もいるが我が家は違う。
康之はATMでもないし、いっそ離婚したほうが精神的にも経済的にも、色々な子育て支援を受けられていいかもしれない。
実際そういって、離婚している友人も何人かいる。
実家の両親もまだ元気だから、実家に帰るのもありかな。
2人の子供たちがお菓子コーナーで選んでいる姿を見ながら、この子供たちにとっては、お父さんが必要じゃない。
これから先康之が働いてくれさえすれば、いいだけなんだから。
そう思い今日まできてしまった。
その間に康之は何度も仕事を変えては、長続きしなかった。
わかっている。
私が康之を甘やかしているんだ。
8歳も年上の私がいつも何とかしてあげてしまうことに、康之はすっかり依存している。
この女は絶体に自分を見放さないと、高を括っていることも。
晩御飯の支度をしながらちらっと奥の部屋を見ると、寝転がってスマホをいじっている康之の姿を見ると、足元からザワーと寒気が込み上げる。
慌てて無心にキャベツを千切りにする。
高校の制服姿の長女の清香がテーブルに座って、しばらくスマホをいじっていたが、横に来て小声で「ねぇ。パパさぁ、また仕事、辞めたでしょ。私だって、週3でバイトしてんだよ。子供が一生懸命働いていて、親が遊んでいるって、おかしくない?大志だって、高校受験なのに塾にも行かしてもらえないっていってたよ」
「そうだね。ほんとに困るよね」と他人事のように呟やく。
その通りだ。清香がいうようにもう子供たちも父親が働かないのは、おかしいと気付く歳だし。
子供のためにも、離婚はしない。
それが最後の砦のように必死に守ってきた。

康之が仕事を辞めるたびに、崩されそうになる砦をいつまで守ればいいのだろうか。
何度も離婚した後のことをシュミレーションしてしまう自分にも嫌気がさす。

長男の大志の中学校での3者面談の帰り道を大志と並んで歩く。
思春期の大志はこうして母親と一緒に歩くのが恥ずかしいのか、少し遅れて距離を保って歩いている。

なんとなく後ろを振り返るようにして「大志もやっぱり塾とか行きたいよね。志望校も都立一本って、いってたけどそれでいいいの?滑り止めで私立も受けたら?」
大志はニキビが目立つ顔のニキビの一つをつまみながら「でも、うちお金ないじゃん。塾に行きたいけど、無理でしょう。滑り止めで私立も受験したいけど、それも金かかるじゃん」
しばらく黙って二人で歩いて「もしもだよ。もしもお父さんとお母さんが離婚するっていったどうする?」と少し振り向きながら、大志の表情を伺う。大志は不機嫌そうに視線を落としたまま「え~」といったきり、黙って歩き続ける。
うちの団地の敷地の公園が見えてきた所で、大志が立ち止まる気配がしたので振り向く。
夕日に照らされているのが眩しいのか、大志が少し泣き顔になっているように見える。
「離婚やだよ」大志が怒ったようにいう。
取り繕うように「あ~、やだ。冗談よ。だからさもしも、っていったじゃない。お母さん、しないよ」
話を最後まで聞かずに、大志が怒ったように早足で先にいってしまう。
その姿を見送りながら「そうだよね。やだよね」と呟く。

勤務する施設から出て、少し歩くと緑豊かな公園の入り口に停まっている移動式のお弁当屋さんを目指す。
普段は倹約のためにお弁当を作っているけど、その日は久しぶりに外に出た。
ランチタイムをかなり過ぎていたから、残りのお弁当は最後の一つだけのマーボー豆腐丼が、車の前に出したテーブルに一つだけ残っている。
申し訳なさそうに、私より少し年上の風采の女性が「これしか残っていなんですよ」
後ろに控えているキッチンカーで片付けをしている、中年男性も申し訳なさそうに頭を下げる。
財布からお金を出して「いいえ。これ食べたかったんです。辛さ具合が丁度良くって、また食べたいな~と思っていたので」とマーボー豆腐丼を受け取る。
女性が笑顔で「サービスでスープお付けしておきます」
「うわ~うれしい。(2人の様子を伺って)ご夫婦ですよね。こうやって、お二人仲良くお弁当屋さんされていて、いいですね」
女性が後ろの男性をちらっと見て小声で「色々苦労かけられて、やっと今こうしてやってます」
男性は聞こえないのか、片付けに専念している。
仲睦まじく見えるご夫婦にどんな試練があったのか興味が湧き「え~どんな、ドラマがあったんですか」と尋ねる。
女性もあっけらかんとした調子で「転職は(指を折って数えて)両手では、足りないな~あとリストラにおまけに(小指を立てて)こっちまで」
自分の噂をされていることに気付いているようだが、知らん顔で片付けを続ける男性。
驚きその夫婦を見比べて「え~、それでも今こうして」
女性は男性をちょっと愛おしそうに見て「ね~。どうしてでしょうかね。散々苦労かけられましたけどね。
私はその時、康之の顔を思い浮かべていた。
10年後にこの夫婦のように、笑っていられるかしら。

 仕事を終えて帰宅しようと思った時に清香からラインが入り、駅前のファーストショップで制服姿の清香が待っていた。
私の顔を見るなり、神妙な表情で清香が「言おうかどうしようか、すごく迷ったんだけどさ。やっぱり、言うね。先週、見ちゃったんだよね。渋谷の繁華街のカラオケ店からパパと同じ歳くらいの女の人が出て来るの」

清香の顔をじっと見つめて「……先週……渋谷でね」と断片的に言葉を紡ぐ。康之は前にも浮気かどうかははっきりわからないが、似たようなことはあった。

私が問い詰めると女性と逢っていたことは認めるが、決してそおゆう関係ではないという。
清香は残ったドリンクの氷をストローでかき混ぜながら「私は、パパと離婚してもいいよ」
清香から目線をそらすが、訴えるような清香の視線を感じる。
「だってさ、働かない。それに……浮気?って、サイテーじゃない」
清香の言葉を遮るように「浮気って、ただカラオケに行っただけじゃないの」と康之をかばうような口調になる。
「私がママなら、速攻別れるね」
「何いってんの。あなたもママになったらわかるわよ。そんなに簡単に夫婦、やめられないのよ」
私の中で最後の砦が崩壊しそうになる。
ずっと守ってきた、最後の砦がゴ~と音をたてて崩れていく。
もうだめかな私達。
自宅に清香と一緒に帰ると、玄関を開けた瞬間にカレーのいい匂いが充満している。
台所で康之が、一心にカレーを作っている。
清香が先ほどの康之を責めた態度とは裏腹に「うわ~パパのカレー大好き!うれしい!お腹空いた」と康之の隣に立つ。
康之は月に一回は、スパイスを絶妙に配合して本格的なカレーを作る。それ以外はあまり家事をしないが、このカレーは私も大好きだ。台所に立つ康之の姿を見て、ふと昼間に出会ったキッチンカーのお弁当屋さんのご夫婦を思い出す。
家族4人で康之のカレーを頬張り清香が「ほんとパパのカレー、美味しいよね。これ売れるんじゃない」と冗談ぽくいう。
康之も嬉しそうに笑っている。
なんでもない家族の団らん。
この団らんを守るも、壊すも私次第なのかしら。
清香から康之が女性とカラオケ店に入ったと情報を聞いてから、一週間が過ぎ、夜勤明けで帰ると康之が一人で部屋でぼんやりしている。
その康之の姿を見た途端、思わずこらえきれずに泣き出してしまう。
「どうしてよ。どうしてなの。教えてよ。康之はどうしてそうなのよ。高校生の娘だって週3回はアルバイトしてるんだよ。大志は受験で塾に行きたいけどお金がないし、私立も受験しないで都立しか受けないって」
涙が後から溢れて止まらない。
「それに女とカラオケに行ってたって。清香が見たって。仕事もしないで、浮気までして、サイテーだよ」
ここまで一気に話して、康之の顔を見れなくて俯く。
「カラオケには行ったけど、それだけだよ」康之がぽつりという。
ゆっくりと顔を上げて康之を見る。
「離婚して。私もう限界」そういったことに自分でも驚く。

 安恵はぼんやりと視線を泳がせながら「離婚したいとあの時は本気で思いました。夫も私がそうしたいならいいといってくれました。でもできない。働かない夫を、子供にも呆れられている父親としても失格な夫を見放せないんです」
じっと話を聞いていた智子が自分にいうように「わかるな。その見放せない気持ち」
安恵の目からは、こらえきれずに涙が溢れる。
隣に座っている梨花がそっと安恵にハンカチを差し出す。
安恵はハンカチを受け取り俯く。
全員が黙って安恵を見守る。
少し気持ちが落ち着いてきた安恵が「私は何のために毎日、必死に働い、家族のためにごはん作って、洗濯して掃除して。何のためにって、すごく虚しくなるんです」
安恵が後ろを振りかえり、聖火の炎を見つめて「離婚すればこの苦しみから逃れられるんでしょうか。館長さん、こんな私の悩みをこの聖火が解決してくれるんですか?」
全員が燃える聖火の炎を見つめる。
ガラスケースの中の小さな炎は、皆の視線に応えるように、最初の3倍くらいの大きさにゆらめいている。
マリナがイスから立ち上がり「本当だ!さっきより炎が大きくなっている」安井が聖火を見つめて「私は何もしてませんよ。皆様もご存知の通リ、先ほどから皆様とご一緒にここで、一緒にお話を伺っているだけですから」
聖火の炎が明らかに大きくなっている状態を皆が実感する。
少し興奮気味に智子が「最初は、言いたくなかったけど、皆さんの話を聞いていて、また、今、大きくなった聖火の炎を見て、私も、話します。私の悩みは、一人息子のことです」


         細田智子の悩み

 ダイニングテーブルにできあがった2人分の夕食を前にスマホでラインをする。
するとすぐに返事がくる。
床にしっぽをふって、私を見上げる黒い毛並みのトイプードルのモコに「ちょっと待ってね。お兄ちゃんに先にご飯をあげるからね」
トレーに一人分の食事を乗せて、廊下を経て玄関脇の部屋の前に食事のトレーを置き「置いとくよ」とドア越しに声をかける。
リビングに戻りモコにご飯をあげて、一人でテレビを見ながら食事をする。今年24歳になる一人息子の智也が、部屋にこもるようになったのは離婚した夫がこのマンションから出て行って半年が過ぎた頃からだった。
沖縄から出て来て大学を卒業して、3年間OL生活をしたのちに、私立中学の英語教師として採用された学校で事務をしていたのが夫だった。
結婚するにあたり何となく同じ職場なのをお互いが気にして、夫が転職した。夫はもともと自分からことを進めるタイプではなく、私生活でも友働きだったこともあり、家庭内のことも私が仕切ることが多かった。
息子が生れてからも、1歳で保育園に預けて仕事に復帰して、定時に帰れる夫が息子の保育園の送迎や家の家事も担ってくれていた。
駅に近くてどこに出るにも便利な、その時築数年は経っていたこのマンションを買い、息子が小学校に入るタイミングで引越してきた。

智也は一人っ子だったし、教師をしていたので、早くから塾に通わせてちょと背伸びした、大学までエスカレーターで行ける中学を受験させた。
この時から何もかもいつも私が決めて、夫が従うという力関係が出来上がっていた。
知らずうちに教師にありがちないつも『うえから目線』で、命令口調でものいう嫌な女になっていたようだ。
後に夫の浮気が分かった時に「君はいつも俺を見下していたじゃないか」といわれた。
浮気をした夫に非があるのは当然だが、振り返ってみたら夫がいうように、夫にも息子にも『うえから目線』でいたのかも知れない。
夫からは「君とは一緒に暮らせない」といわれ、8年前、智也が高校1年生の時に離婚した。
残りのマンションのローン返済は半分払うことと、智也の教育費を大学卒業まで援助する事を約束して夫は浮気相手と再婚した。
智也にとって小さい時から、何かと世話を焼いてくれた夫が、家を出て行ったことは、かなりショックだったようで、同居していても私を無視して、今ではほとんど顔も合わせないようになった。結局学校にも行かなくなり、こうして、部屋にこもるようになる。
不満でも何でもいってくれたら、まだましだけどこうして拒絶され続けるのはとてもに辛い。
夫を愛していたわけではないけど、夫にも息子にも見放された寂しさを紛らわせるように、3年前からモコを飼い始めた。
「モコちゃん、お散歩行こうか」
マンションの前の公園でモコを散歩させていると、同じマンションに住む桐谷さんが、愛犬のシーズ犬を連れて近づいてくる。
桐谷さんは甲高い声で「あら~モコちゃんだわ。嬉しいわね」とシーズ犬がモコに寄ってくる。モコは女の子でシーズ犬は男の子で、モコをとても気に入っているようだ。
桐谷さんは私より一回りは年上で、お子さんたちは独立して今はご主人と2人で暮らしている。このマンションが建った時からの入居者で、マンションの住人のことはさることながら、犬の散歩をしながらいろんな所で井戸端会議をしては、近所の情報収集をしている。どちらかというとゴシップ好きな人なので、きっとうちの夫婦の離婚や、智也の引きこもりもどこかでネタにされているだろう。
「ねぇ、ご存知。最近このあたりで、小さい女の子にいたずらする被害が出ているんですってよ」とシーズ犬がモコにちょっかいを出そうとするのを、リードを引いてけん制しながら桐谷さんがいう。
「え~、そうなんですか」とモコの様子を伺いなから返事をする。
「被害にあった子の証言によるとね、犯人は若い男らしいのよ。時間は学校が終わった3時頃ですって。だいたいその時間にウロウロしていることが、もう怪しいわよね」と決めつけた口調でいう。
しつこくシーズ犬がモコに寄り、モコが嫌がっているようなので、そろろろ帰ろうかと思って「じゃあ」といいかけると。
街灯の灯りに照らされた桐谷さんの顔は、新しい獲物を逃さないとの気迫で、探るような目で「細田さんの息子さん、何のお仕事してるの?よく昼間にコンビニでお弁当を買っているのを見かけるけど。夜勤か何かかしら」
おっとそうきたか。
「え~。今流行りの在宅ワーカーっていうんですか。家でパソコンで仕事してます」
と切り上げようとすると。
「あら~、それはいいわね。最近ご主人は見ないけど、お具合いでも悪いのかしら」
「いえ、主人は元気だと思いますよ。もう8年も前に離婚して、出て行きましたから」
私の潔い態度に面食らったように桐谷さんは、バツが悪そうな顔をする。

 その日は、朝から憂鬱だった。
自分でも情けないが、英語の教師を30年もしているのに英会話が苦手というか、あまり話せない。日本人が英語が話せないのは、学校の英語教師の質が悪いからだとの批判もある。中学教師のTOEICの平均スコアが560点、高校では620点と言われる。
私もこの程度だと思う。
今日は受け持つ一年生のクラスに、アメリカから来たネイティブな男性講師が授業に入るが、帰国子女の女子生徒が私の憂鬱の種だ。
40名ほどの男女が混じる生徒が静かに席に座って私達に注目している。
私は緊張してアメリカ人の男性講師を皆に紹介して、生徒一人一人に英語で簡単な自己紹介をしてもらう。
帰国子女の中村アリスが立ち上がり、ひと際流暢なアクセントで自己紹介する。
しばらくアリスとアメリカ人の男性講師との会話が盛り上がる。
そのやり取りを顔いっぱいにひろげた笑顔で見守るが、アリスが急に話を私に振ってきた。
あまりにも完璧なアクセントと早い速度で話されて、気が動転してしまい、もごもごと口ごもってしまって、全く答えられなかった。
アリスは悪魔のような微笑みを浮かべて「先生もしかして、聞き取れませんでした」と挑むようにいう。
穴があったら入りたいとは、このことで背中にびっしょりと汗が噴き出る。それでも何とかその場はことなきを得たが、そのクラスの授業が終わったら、昼食も取れないほど落ち込んだ。
暗い気持ちのまま自宅に戻り玄関を開けると、モコが勢いよく駆け寄ってくる。
思いっきりモコを抱きしめて「モコ、ただいま~!会いたかったよ~」
夕食の支度をしていると、マンションの組合の理事をしている小林さんが訪ねて来る。
小林さんもこのマンションの最初からの入居者で、以前は役所のお偉いだったらしく、定年退職しても前職の名残なのか、かなり態度が横柄で苦手だった。
ドアを開けるなり小林さんが凄い剣幕で「息子いる」
さすがにイラっとして「はい?いきなり、何ですか」
「あんたはいいから、息子、出しなよ」と強硬にいう。
「いきなり訪ねてきて、失礼じゃないですか。一体どのようなご用件ですか」
「今日マンションのごみ置き場で放火があったんだよ。管理人がすぐに気が付いて良かったけど、発見が遅かったら火事になっていたんだからな」
「それとうちの息子と、何の関係があるっていうんですか」
「写っていたんだよ」
「写っていたって?何に、誰がですか」
小林さんは怒りに震えて、話がしどろもどろになり「だからさっきからいってんだろ、あんたの息子が写っていたんだよ」
何度も問いただして、やっと小林さんのいいたいことが理解できた。
放火があっただろうと思われる時間の前後に、智也がエレベーターのカメラに写っていたというのだ。
小林さんは智也が犯人ではないかと疑っているようだ。
それでは警察に来てもらって、現場検証してもらいましょうと、警察官に来てもらうことにした。
ドア越しに智也に状況を話して、一緒に立ち会うようにと説明する。
暫くしてドアが開き、久しぶりに智也の顔をまともに見た。
智也は意外とこざっぱりとしていて、黙ったまま私と一緒にマンションのエントランスへと向かう。
エントランスにはすでに2人の警察官と小林さん、桐谷さん、マンションの管理会社の担当者の男性が待っていた。
小林さんが智也に向かって「あんたあの時間に何しに来たんだ」
少しベテラン風の警察官が暴走する小林さんをいなして「皆様集まって頂き、ありがとうございます。今日の午後2時頃、こらのゴミ置き場で、置かれたゴミが燃やされたそうで。幸い事なきを得ましたが、最近このような事件が数件起きていまして。今警察も全力で調査している所です」
一息ついて警察官が智也に向かって「一応お尋ねしますが、そのくらいの時間にゴミ置き場に行かれましたか」
智也はしっかりと警察官を見すえて「エレベーターで下に降りて、すぐそこのコンビニまで買い物に行きました。ゴミ置き場には行ってません」
警察官はにこやかに「そうですか。その時見慣れない人や、あるいはどなたかマンションの方を見かけましたか」
智也が桐谷さんの方を見て「こちらの方のご主人が、ゴミ置き場から出て来るのを見ました」
一斉に皆が、桐谷さんを見る。
桐谷さんは、凍り付いたように黙ってしまう。
警察官がにこやかに、小林さんに「エレベーターのモニターにこちらの方が(智也が)写っていたからといって、疑うのは違うと思います。警察も犯人を早く特定できるように全力で捜査しますので、今日の所は解散しましょう。お集り頂きありがとうございます」とそれぞれが、部屋へと帰って行く。
警察官にお礼をいい、智也と一緒に部屋に戻る。
玄関のドアを開けると、モコが飛び出してきて智也に甘える。
智也もモコの頭を撫でて、自分の部屋に入ろうとする。
咄嗟に「待って」と智也の背中に向かって務めて明るく「出てきてくれて、ありがとう。晩御飯すぐに支度するから、一緒に食べない」
一瞬智也が肩越しに振り返るが、そのまま部屋の中に入ってしまう。
モコが智也の部屋に向かってしっぽをふっている。
「モコ、お母さんと一緒にご飯食べよう」とキッチンへと行く。
できあがった夕飯をトレーに乗せ、再び智也の部屋の前に行き部屋をノックする。
少しすると智也が顔を出し、私の顔を見て一瞬躊躇するがトレーを部屋に入れて直ぐにドアが閉まってしまう。
ドアの前に座り込み部屋の中の智也に「食事を食べながら聞いてくれるかな」
モコが私の横に来て、じっと顔を見てその場にペタリと寝転ぶ。
「今日お母さんね、学校でね」と中村アリスとの一件を話す。
「30年も英語教師をやってきたのにさ。2人の会話についていけなかったのよね。今まで一体何をしてきたんだろうって、すごく落ち込んだんだ。さっきマンションの小林さんが、智也に対して取った態度もさ、凄く腹が立ったんだけどさ。お母さんも一緒だなって思ったんだ」
モコが心配そうに私の膝の上に乗ってくる。
モコの黒い艶やかなふわふわな毛並みをゆっくりと撫でてあげる。
気持ち良さそうに顔を突き出し、目を閉じて私に体を預ける。
『君はいつも俺を見下していたじゃないか』離婚した時に夫からいわれた言葉を思い出す。
英語教師のくせに、英会話も満足にできないのに偉そうに振る舞っている。学校でも家庭でも、いつも上から目線で。
本当は寂しくて一緒に居たいのに、そう素直に言えない。
そう思ったら、涙があふれてきた。
モコの体を支える手に涙が落ちる。
モコがその涙をペロペロと舐めてくれる。
智也にもどれだけ寂しい思いをさせてきたのだろうか。
自分の傲慢さが小林さんの態度と重なる。
あ~、嫌になっちゃう。
人生半分以上生きてきて、今頃気が付くなんて。
「だからお母さん。もう一度、ここからやり直そうと思うんだ。今日思ったから、まだ具体的にどうしようかっていえないんだけどさ」
そういって、しばらくその場でモコの体を撫で続けた。

あのマンションの放火未遂の事件から、毎日夕食を智也に持って行くと、部屋の前に座り、その日にあったことをドア越に智也に話すようになる。
1ヵ月後にマンションの放火未遂の事件の犯人が捕まったと、マンションの管理会社の担当の男性から連絡をもらった。
近くに住む精神疾患のある、若い男性だと教えてもらう。
桐谷さんはモコの散歩で出くわしても、知らん顔して行ってしまう。
小林さんは出会っても、挨拶も返さず無視する始末だ。
私は決して同じ人間にはなるまいと、固く心に誓う。

 ここまで話すと智子は大きくため息をついて「今でも。智也は私が家にいる時は、部屋から出てきません。私が智也をそうさせてしまったと思います。このままだと智也はずっと部屋から出てこなくなるのかと思うと……」
安恵が智子を見て「でも見放せないですよね」と自分にいうように呟く。
智子が安恵に同調するように頷いてから「わかっています。私が息子を甘やかせてしまっているって。でも正直自分でも、どうしていいかわからなくて。気持ちは何とかしないといけないって焦るばかりで。この先のことを考えると……」
智子が俯いて、全員が沈黙する。
「こんな悩みを話すなんて、自分でも信じられません。これも聖火の魔法にかかったからですかね。お陰で憑き物が落ちたみたいに、すっきりしました」と智子が両手を大きく広げて胸を張る。
「こうして皆さんのお話を聞いていて思いました。マンション売って、学校も退職して、しばらくカナダの大学に留学します」
安井が驚き「それはまた凄い飛躍ですね」
智子は嬉しそうに「大学時代の友人がカナダ人と結婚して住んでいるんです。前々から遊びにおいでっていわれていたんです。英語教師のくせに英会話だめじゃないですか。ちゃんと大学院で勉強して、教師としてやり直します。もう遅いかも知れませんが」
「遅くはないですよ。人生100年時代ですよ。まだまだこれからです。それにもしかしたら、環境を変えるのもいいかもしれませんね。きっと大丈夫ですよ」と安井が智子を優しく見つめる。
安恵が晴れやかな表情で「私も皆さんの話を聞いていて、できるかどうかわからないけど。夫と2人でキッチンカーのカレー屋さん、やりたいなって。夫の作るカレー、本当に絶品なんです。娘も売れるんじゃないって。」
「いいじゃないですか。開店したら、是非この近くで販売してくださいよ。もうすぐ世界中からオリンピックで人が集まりますからね」と安井が安恵を見る。
すると自然と全員の視線が香菜に集まる。
香奈は俯いたまま、何か考えている様子だった。
安井がにこやかに「ここで少し休憩しましょう。温かいミルクティーを淹れてきますので」
安井が部屋を出て行くと、女性達はそれぞれが賑やかに話しはじめるが、香奈だけは一人思いつめたようにじっと座っている。
安井がミルクティを淹れたポットを持ち戻ってきて、1人1人にミルクティを注いでいく。
ほとんど用意された食べ物には手をつけていない香奈に安井が小声で「ご気分でも悪いですか」と尋ねる。
香奈は俯いたまま、小さく首を振る。
智子が香奈の様子を伺いながら「中島さん?さっきから、ほとんど食べていないし、ご気分でも悪いかしら?」
安恵がミルクティを飲み「あ~美味しい!館長さん、さすがですね。来年ご自宅を改装したティーサロン。開店したら、今日ここで集まった皆さんと集りましょうよ。ねぇ~」と楽しそうに皆に促す。
安井も嬉しそうに「是非、皆様でいらしてください」
「ほんとにねぇ。最初は初対面の方々を前に悩みを話すなんて嫌だったけど、館長さんの衝撃の告白から、みんな色んな悩みを抱えているってわかったから」と楽しそうに智子がミルクティを飲む。
梨香が聖火を見つめて「最初に見た時より確実に炎が大きくなっている」とつぶやく。
全員が聖火を見つめると、聖火の炎は、かなり大きく勢いよく揺らめいている。
香奈が小さな声で「私の悩みは……」
全員がゆっくりと香奈を黙ってみつめる。
香奈は聖火を見つめながら「私の悩みは、私自身です」

 

     中島香奈の悩み

帰宅して自分の部屋の灯りをつけたら、足の置き場がないほどの散らかっているのにうんざりする。
母も最近は留守中には部屋には入ってこないので、この惨状は知らない。
ペットボトルやスナック菓子の袋、チョコレートの箱、菓子パンの袋、コンビニ弁当のトレーなど、テーブルの上やベットの回りに散らばっている。
買ってきたコンビニの袋をどっかりとベットの上に避難させて、散財しているゴミを集める。
どうして、こんなになっちゃたんだろう。
溜まったゴミに対してなのか、1人で食べた食べ物に対してなのか、自分でもよくわからない。
家族と一緒に食事をほとんど取らなくなり、こうして自分の部屋で好きな物ばかかり食べるようになった。
前は母は、何で一緒に食べないのかとうるさくいってきたけど、もう最近は何もいわなくなった。
母は元々私をあまり好きではないんだ。
3つ歳上の兄は、子供の頃から長男の特権なのか、特に母はあからさまにかわいがった。
勉強もスポーツもよくできて、親の言うことを忠実に守るできのいい、自慢の息子だから。
母にいわせると、私は手を焼く子だったようだ。
母の口癖は「お兄ちゃんは本当に手がかからないのに、何であなたはいつもお母さんを困らせるの」だった。
いつも兄ばかりひいきする母に、もっと自分を見て欲しいといつも思っていた。
それがうまく表現できずに、幼い時はよく「この子は、癇の虫が強いのよね」といわれた。
仕事が忙しい父がたまの休みで、家族で出かけるという時にも、お気に入りのお洋服が、洗濯されてしまって着れなかっと、自分だけ行かないとトイレにこもった。
どうしても欲しい物があり、母が買ってくれないと、人前でも店の床に寝転がり泣いて買ってくれとごねたりもした。
中学生の時は女子同士の仲間外れにあって、不登校も経験した。
勉強もあまり頑張らず、高校も普通の都立高校に入って部活もやらずに、帰宅部になる。
将来への明確な夢や、何かをやる気もなく、ただぼんやりと毎日を過ごすだけだった。
それとは対照的に兄は現役で超難関大学に合格して、更に卒業時には公認会計士の資格を取って、大手コンサルティング会社に就職した。
ますます母からの私への期待は無くなった。
自己肯定感の低い自分が、大っ嫌いなコンプレックスの固まりになる。
あたしがこの世に生れた意味って何なんだろう。
時折負のスパイラルに引きずられてどうしようもなくなったと時に、おこずかいで思いっきりお菓子を買って、好きなだけ食べるとその時はすっきりとした気持ちになる。
そうやって暴飲暴食をしていると、一気に太りはじめた。
太った自分が嫌いになり、今度は過激なダイエットをはじめる。
ネットで調べてありとあらゆるダイエットを試しては、少し成功してはまた、その反動で食べてしまう。
食べたら口に手を突っ込み、食べた物を吐き出すことを覚えた。
こうすれば食べることで満足感が得られて、直ぐに吐いてしまえば太らない。
この繰り返しで、何とか体重は保ってられる。
部屋のごみをかたずけて、少しはましになった。
ベッドに避難させたコンビニの袋を取り出して、最近のお気に入りの菓子パンから食べる。
スマホにイヤホンをつけて、見逃したドラマの放送を見る。
突然ドアが開いて、母が顔を覗かせる。
イヤホンを外して「ちょっと、何よ突然!ノックくらいしてよね!」と尖った声でいう。
「何回もノックしたし、声をかけたけど返事がないなら」と母は部屋の中を一瞥する。
「で、何?」
「明日お誕生日でしょう。仕事終わったら、真っ直ぐ帰ってきてね」
「なんで?」
「だって誕生日じゃない。お祝いしなくっちゃ」
「誕生日って、23歳だよ。もう子供じゃないし別にそんなのやってくれなくていいし」
「でもねぇ……」
「いいって。それに明日は、友達とごはん食べる約束しているし」
「そうなの。じゃあ、週末にしようか」と母は食い下がる。
「ホントにいいって。やってくれなくてさ」
本当は友達の約束なんてなかった。
私の誕生日を祝ってくれる友達もいなければ、彼氏もいない。
家族以外に私の誕生日を覚えてくれている人なんかいないのに。
母は少し寂しそうにゆっくりとドアを閉めた。
閉まったドアをじっと見つめてたら、なぜだか涙が溢れて止まらなかった。なんでこんなになっちゃったんだろう。
どうして素直に母に甘えることができないんだろう。
せっかく誕生日を祝ってくれるのに。
買ってきたコンビニの袋に入っていた、お菓子や菓子パンをひたすら食べた。
途中から本当に気分が悪くなって、思いっきりトイレで吐いた。
トイレから出た時に、台所で片づけものをしている母の後ろ姿が見えた。
その母の後ろ姿をじっと見つめる。
今ここで母が振り返ったら「やっぱり明日、友達の予定は無くなったから晩ご飯うちで食べるね」って心の中で呟く。
しばらくその場に立っていると、玄関が開き兄が帰ってくる。
母は直ぐに気付き、笑顔で兄を出向かえるために急いで台所から出て来る。その時やっと私の存在に「あら」と一言いって「お帰りなさい」と兄へと視線を向ける。
やっぱりそうなんだ。
母にとっては、いつも兄が一番なんだ。
その場にいるのが辛くなって、2階の自分の部屋へと階段を上がる。

都心の中心部にある高層ビルの一角にあるオフィスビルのワンフロワーは、8割が女性が占める保険会社のコールセンター。
情報処理の専門学校を卒業して就職した会社。
この職場で今日、私が誕生日だって知ってる人は当然いない。
交代でランチタイムに出かける集団を見送り、一人席を立ち女子トイレの個室に入り、鍵を閉めると便器に座り、携帯を出しイヤホンをつけてお笑いコンビの動画を視聴する。
バックからコンビニで買ったおにぎりとペットボトル、菓子パンを3個食べる。
画面はずっとスマホの画面を見つめているだけ。
23歳の誕生日のランチも、いつもと同じように誰かに一人で食べてる所を見られたくなくて、この狭い個室で過ごす。
お誕生日にトイレの個室でランチなんて、世界中で私くらいだろう。
それでも子どもの時は、母が必ず用意してくれる大きな丸い苺のホールのショートケーキが楽しみだった。
から揚げにエビフライ、甘くてピンク色がかわいいさくらデンプと錦糸タマゴ、赤いイクラがたくさん乗ったちらし寿司。
その日は家族みんなが私の誕生日を祝ってくれる日。
なのに今の私は。
だんだん自虐的に気持ちが落ちてきた時に、スマホに専門学校の友達からラインが来る。
今日仕事が終わったあとに会わないかとの誘いだった。
久しぶりの友人からの誘いだが、一緒に食事となると気が重い。
お茶くらいならいいかと思い、5時過ぎに近くのカフェで待ち合わせをした。

待ち合わせのカフェに行くと友人の彩花はすでに来ていて、笑顔で立ち上がって私に手招きをする。
そうされなけば一瞬、誰だかわからないほどだった。
彩花に会うのは1年ぶりだか、すっかりあか抜けてきれいになっていた。
以前の彩花はカジュアルなファストファッションに、ショートカットでどちらかというと、ボーイッシュな印象だったが、今は髪の毛を肩まで伸ばし明るめのカラーリングで、洋服もさらりとしたフェミニンな薄いベージュのブラウスに白いタイトスカートを吐いている。
あまりの変身ぶりに私は正直に「彩花、すっかりきれいになっちゃって、わからなかった」
彩花はまんざらでもない様子で、一方的に自分の近況を話しはじめた。
仕事は派遣社員をしながら、副業で自然化粧品の販売をしているそうだ。
その化粧品との出会いが、自分をここまで変えてくれたと熱弁をふるう。「もう、人生感が大きく180度変わったのよ。ほんとにすごいのよ」といって脇に置いていた大き目のバックから、化粧品をいくつか取り出して説明しはじめた。
回りにいる客の好奇な視線にも臆することなく、ベテランの実演販売のごとく、どんなにすぐれた化粧品かと熱っぽく語る彩花の話をただ黙って聞いていた。
彩花が説明する度に持ち上げる化粧品よりも、それを持つ手元に釘つけになった。
少しのばした爪に、肌になじむ上品なピンク色にポイトにキラッと光るネイル。
まるで手先がバレリーナのごとく美しくて華やかに舞うような印象だった。彩花の話している内容は、ほとんど頭に入ってこないで、手元ばかりをじっと見つめていた。
彩花は私が化粧品に興味があると思ったようで、ひとしきり話し終わると満面の笑顔で「どう、香菜も一緒に使ってみない」
そこでやっと、彩花が私を誘った本当の理由がわかった。
最初から彩花が私の誕生日を祝ってくれるとも思っていなかった。
いや絶対今日私が誕生日だってことも、彩花は知りもしないだろう。
知ったところで、表面的なお祝いの言葉をいうだけだろう。
彩花の目的は、私にこの化粧品を売りたいのだ。
「それで、いくらなの。その化粧品」と買うつもりもないが、一応聞いてみる。
彩花は化粧品がどんなに希少で肌にいい成分を使っているかと前置きして、私の1ヵ月分のお給料にほぼ近い金額をいう。
呆れて「そんなに高い化粧品を彩花は使っているの」私はいう。
「だからね、この化粧品を香菜もお友達や知り合いの人に紹介してもらうとね、半額で買えるのよ」そういって今度は、販売方法の説明をはじめる。
説明しながら更にテンションが上がったのか、声やジェスチャーが大きくなる彩花に、周りの人達があからさまに白い視線を注ぐ。
我慢できなくなって「ごめん。私ちょっとこのあと約束あるから、ごめんね」
何か必死に取り繕う彩花を残して、その店を出る。
自分が情けなかった。
少しは自分の誕生日を祝ってもらえるんじゃないかという淡い期待を抱いたが、実は、高額な化粧品の販売の勧誘のために呼びだされただけだったのが。
私がこの世に生まれた日。
そんなの誰にも関係ないんだ。
そんな自己否定を繰り返しながら、どこに行くあてもなく、駅前の大通りを駅とは反対の道をぼんやりと歩く。
街にはこれから飲み行こうとしている人々や、足早に帰宅に急ぐ人でごったかえしている。
最悪の誕生日だ。
祝ってくれる人もいないひとりぼっちの誕生日。
ふと足元に置いてある看板に目がとまる。
きれいなネイルを施した手の写真が貼ってある。
見上げるとそのビルの5階がネイルサロンのようだった。
吸い込まれるように5階までエレベータであがり、そっとネイルサロンのドアを開けと、人懐こい笑顔の女性が迎えてくれる。
人生初めて入るネイルサロンに最初はとても緊張していたが、案内されたパーテーションで仕切られた個室は心が安らぐとてもいい香りがする。
受付で出迎えてくれた女性が向かいに座り、私の手を優しく取り「きれいな手ですね」と透明に先だけ白いアクセントをしたネイルを施した柔らかな手に預ける。
「どんな感じにしましょうか」と笑みを絶やさずに聞いてくれる女性に、なぜかとても素直な気持ちで「今日、私の誕生日なんです。だからそのお祝いになるようにしていただきたいです」
女性はさらに目を細めて「それは、おめでとうございます。記念になるようなネイルをさせて頂きますね」
1時間後にできあがった私の爪は、サーモンピンクのベースにポイントに白い小さなバラがついている。
初めて美しく変身したネイルを施した爪を見て、まるでお姫様になったような気持ちなる。
あんなにも落ちてた気持ちが一気に上昇する。
「きれいな手が、幸運をつかむんですよ。是非また、お待ちしています」と名刺を差し出される。
帰り道も電車のつり革を掴む手も、歩きながらもそっと手をかざして、ネイルを施した手を見つめる。
爪にネイルしただけで、こんなにも気持ちが華やぐのかとささくれ立った心を癒しされて、上機嫌で帰宅する。
いつものようにコンビニで買った菓子類やパンが入った袋をベットの上にどっかりと置くと、テーブルにメモが置いてある。
母の字で『お誕生日おめでとう。冷蔵庫にケーキとちらし寿司とから揚げ、エビフライ、入っています。母より』
すぐに下に降りて、台所を覗くと母の姿はない。
辺りを伺うと、お風呂に入っているようだった。
冷蔵庫を開けると、きちんとラップがかけられた食事が用意してある。
ケーキの箱には、小さめのホールのイチゴのショートケーキが入っている。ふいに涙が込み上げてくる。
母がお風呂から上がった気配がしたので、急いで食事とケーキを持って2階の自分の部屋に入る。
母が作ってくれた、甘くてピンク色がかわいいさくらデンプと錦糸タマゴ、赤いイクラがたくさん乗ったちらし寿司を食べながら、ネイルを施した爪を見つめながら、一人でささやかにお誕生日を祝った。

 ここまで話して一息ついて香菜は、ミルクティーを少し飲み「私異常に食べてしまうんです。食べた後は、どうしもない罪悪感で吐くんです」
梨香が遠慮がちに「もしかして、摂食障害?」
香菜が力なく俯きながら「たぶん……。だから人と一緒に食事をしたくないんです。自分が食べている所を見られたくないんで」
マリナが怪訝な表情で「え~、それでトイレで食べるんだ~」
「それはいつごろからですか?」安井が優しく問いかける。
「高校生2年生くらいだと思います。何をやっても思い通リにならなくて、自分が無性に嫌になってイライラすると、食べるとスッキリするんです。それでストレスがたまると、思いっきり食べて、食べた罪悪感から吐いて。その繰り返しで」
安恵が香菜の残しているトレーを見て「だから全然食べなかったのね」
「人の前で食べるのが、怖くって。食欲はとまらなくて沢山食べてしまうんです。その後食べすぎたことを後悔して。自分でもおかしいって思います。でも……」
梨香が心配して「それじゃあ、身体を壊しちゃうでしょう」
智子が立ち上がり、香菜の肩にそっと手を置き「まずお母さんに、今のあなたの気持ちをうち開けてみて。お誕生日の話を聞いたら、いいお母さんじゃないの。そりゃ、お兄さんと比べることもあるかと思うけど、ちゃんと香菜さんのこと大切に思っているんじゃないのかしらね。子供がかわいくない親はいないわよ。母親はダンナより、時には自分よりも子供が大切なんだから」
俯き涙が溢れてとまらない香菜を一同が静かに見守る。
安恵も席を立って香菜にそっとハンカチを渡す。
しばらく香菜が落ち着くまで、全員が静かにぼんやりとする。
梨花が香菜の手をそっと握って「それは、辛かったわね……この手のネイルとても素敵よ」
しばらくして香菜が落ち着き、顔を上げて「今日こうやって話せて良かったです。私も心の中で変わりたいってずっと願っていました。友達やこうやって皆さんと一緒に楽しく、お茶したりしたいってずっと思っていました」
安井が微笑み「どうぞおいしいミルクティを召し上がってください。それに香菜さんはもう大丈夫ですよ。でも、一度専門の病院を受診したらいいと思います」
安井が香菜のカップに温かいミルクティを注いであげる。
香菜がゆっくりとミルクティを飲んで、食べ残したケーキを食べる。
「あ~美味しい」
全員が優しく見守る中、ゆっくりとケーキを食べる香菜。
食べ終わった香菜が晴れやかな表情で「今日こうして話していて、思ったんです。ささくれだった私の心を晴れやかな気持ちに変えてくれた、ネイルアーティストになりたいって。きれいな手をつくってあげて、沢山のひとを幸せな気持ちにさせたいって思います」
安井が聖火の方を見て「そうですか。では香菜さん、聖火に向かって心から誓い願ってください」
一同が静かに見守る中、香菜がイスから立ち上がり聖火に向かって「私はネイルアーティストになって、きれいな手をつくって、沢山のひとを幸せな気持にします」
「今日初めて会ったばかりの人に、今まで誰にもいえなかった悩みをこうして打ち明けるなんて」と安恵が聖火を見つめて「館長さん。これで全員が悩みを告白したんだから、ちゃんと聖火が元どおりになって、私達の悩みが解決するんですよね?」
全員が聖火の炎をじっと見つめる。
聖火の炎は3倍くらいは大きくなったが、そのまま変わりがない。
香菜が立ち上がり、聖火のそばに行き「この炎を見ていると心がじわ~と温かくなる」
マリナも立ち上がり聖火のそばに行き「ほんとだ。炎が生きているみたい」聖火はガラスケース一杯にそして天高く舞い上がる龍のような勢いで、盛大な炎をまき散らして燃えている。
梨花、安恵、智子も立ち上がり聖火をぐるりと囲むように立つ。
聖火の炎が5人の女神に取り囲まれるのを安井が離れた所で見守る。

そのあと聖火の炎がどうなったか。
あの日5人の新しい聖火の女神たちが、炎に向かって煩悩=悩みを吐露し、
それぞれが新しい自分の夢を叶えるべく、新しい出発をした。

 吉永マリナは、高校を卒業すると、美容師の資格を取る為に今は専門学校に通っていて、将来メーキャップアーティストになる勉強中。
悩みだったお母さんと弟さんは、今はフィリピンで暮らしている。

 中島香奈は心療内科で摂食障害の治療を受けながら、ネイルアートのお店で働きながら、独立を目標に頑張っている。

 高島梨花は隣に住むご家族が突然引越し、童話や絵本の執筆をし、最近絵本のコンクールで佳作に入賞した。

 細田智子はご主人と一緒に移動式の販売車で、カレーのお弁当を売る商売を始めた。

 堀口安恵はマンションを売り、勤務していた学校を辞めて、カナダの大学で教育学を勉強している。息子は愛犬のモコちゃんと一緒に一人暮らしをして、パソコンを駆使して在宅でお仕事をしている。

 そして私は自宅を改装して、ティーサロン『KURENAI』を開店して、連日沢山の女性客で賑わっている。
店の中央の壁には、勢いよく燃える聖火の横で楽しそうに紅茶を飲む5人の女性が描かれている絵が飾られていて、
その絵の横には、小さく『三代目 聖火の女神たち』とキャピションが書かれている。
脇の小さなテーブルに置かれたカンテラの中ではあの聖火の炎が揺らめいている。
           
               おわり

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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