アタクシ、実に怠け者につき~真面目に不真面目な現代病の考察~
本日のBGM:野坂昭如/マリリンモンロー・ノーリターン
※本日のBGMの歌詞が気になる方はこちらからどうぞ
いつの時代も、過去のアノ頃やソノ頃と現在とでは価値観が変容しているので比較対象になる。そして、もはや「志村~後ろ~」位のお約束ではあるが、鬼籍でない過去、つまりまだ記憶として留められている過去は大抵が現代の何寄りも勝る。現代の勝るモノと言えば、テクノロジーの類だろうか。それ以外の文化や思想、ライフスタイルなんかが議論された場合は大体がやっぱり過去が勝る場合が多い。
それらはきりがない程にあるのだが、「現代より過去の方が優れているぜ」評価を受けている事をざっくり挙げてみる。
教育、人間関係(家族・友人・ご近所付き合い、等)、人間の質(我慢強さ・道徳的観念、覇気の強さ、等)、達筆、出生率、自然環境…etc
上記の他にもあるだろうが、こんなものだろうか。
戦後生まれで無い現代っ子の私には、裕福ではないにしろ、衣食住の不自由の必要基準は満たされているので、情報媒体や人づてに「昔はあーだった、こーだった」等と聞く訳だが、考えるだけでも、その時代に現代の生活環境に慣れた自分が生活するなんて、何たる無理難題。カミナリ親父に絡まれる環境の遊びをまずしない自分が容易に想像できた。
かといって、資料やその時代の人間達から見聞きする、大正ロマンや昭和のあの何とも言えない濃厚な香りはやはり若い世代の私たちを引きつけて止まない。あれだ、観光なら行きたいけど、住みたくはない、みたいなモノだと思う。
色々な時代の変遷を見ていて思う事がある。それはやはり、文明の発達と過去の方が評価の高いモノ(とりあえず、詫び寂と呼ぶ)は、反比例をしがちだという事だ。生活が便利になるのはつまり、少々語弊が生じるが、詫び寂が乏しくなる事だ。
葉書や文書はメールに変わり、辞書はインターネットや電子辞書に変わる。コレが意味する事は、労力が省かれたという事だ。詫び寂はしばしば労力がその足元が支えられている様な気がしてならないのだ。
詫び寂=「思い出の強さ」または「労力をどれほどかけたか」
現代は、人間関係の希薄さを良くスクラップされているが、これも詫び寂の簡素化されたモノだと考えている。人間関係の煩わしさが孤独の気楽さが凌駕している事に他ならないのではないだろうか。
アテクシは大変に怠け者であります。それは文明が私と共にあるからであります。現にこうして書きたい事、伝えたい事のほんの少ししか形にしていません。
それから、この記事がnoteの一発目の記事でございます。不定期更新になるかと思いますが、皆様宜しくお願いいたします。