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父の残りの人生、ボーナスステージであってほしい

はじめましてかっつん(@kattsun4416)です。

今日は、僕の父についてしゃべってみようと思います。

孤高の人

最近、父が丸くなったなあと思う。円満になったなあと思う。昔のイメージとはかなり違う。

昔のお父さんはいつもピリピリしていて、眉間にシワが寄っていて、孤高の人だった。僕は父を恐れていたし、白髪混じりのロン毛でライオンみたいなかっこいいお父さんを誇りに思っていた。でも仕事(自営業)が不安定で、母が持病持ちのため共働きも出来ず、借金をこさえていて、ずっと辛そうだった。今から思うと、一家ただ一人の稼ぎ手として、色んな責任感や重荷を背負っていたのだろう。父の唯一の娯楽は、テレビとアルコールだった。

父は何でもやらせてくれた。勉強しろとも言わなかったし、僕が野球やりたいと言ったときも「やめとけえや続かんけえ」と諭しつつも道具一式を揃えてくれた。大学も「お前の好きにしたらええ」としか言わなかった(後日聞いたら、本当は給料が出るからという理由で防衛大に行ってほしかったらしい)。

対等に見てくれるようになった父

いつ頃から角が取れたと感じるようになっただろう。個人的な感覚としては、大学に行くために初めて親元を離れてから変化し始めた気がする。お酒が好きなのは今も昔も変わらないけど、今の父は普通に甘いものを食べる(昔は食べなかった。徹底して子どもたちに先に与えた。与える人だった)。目も優しくなった。軽口も増えた。お茶目になった。

大学の卒業式が終わり、父に感謝の気持ちを伝えようと電話をかけて、出てきた声の主が一瞬誰だか分からなかった。それくらい印象が違った。「ありがとう、おかげで、卒業できました」と伝えたら、「こっちの台詞だ」と言われた。多分、父は4年間仕送りせずに済んだことと、授業料免除のことを言ってくれてるんだろうと思った。僕は、お金が全くない中、大学まで出させてくれて、ワガママ聞いてくれてありがとうと言いたかったんだけど。

この前帰省した時に聞いたら、僕が給料を稼げるまでに成長したからホッとしたんだと言っていた。この頃から、一人前の人間として認めてくれるようになったのだ。この頃から、父の一人称が「お父さん」から「おれ(たまに「わし」)」になった。

意地でも他人に迷惑をかけない

父親が倒れたのは、2年前だったと思う。

最後まで病院に行かずじまいだったから、病名は分からない。呼吸器系の疾患だったと思う。病院に行ってくれと何度も懇願する(帰郷した)僕と妹に対し「ええっちゃ。金がないけえ」と断固として動かなかった父。この人は徹底して他人に迷惑をかけたくないのだ。僕は最悪の事態を本気で覚悟した。

有難いことに、今は復職できるまでに回復したようだ。滑舌は少々悪くなってしまったけど、それ以外は今までと変わらないお父さんが戻ってきてくれている。と同時に、もう両親とちゃんと話せる時間はそんなに残されていないのかもしれない、とも気付かされた。

今年の正月

東京から見て鳥取は遠い。青森より遠い。夜行バスに片道12時間揺られて車内で年を越しつつ、2年振りに鳥取に帰省した。

初日の晩飯がすき焼きだったのには仰天したけど、おせちを食べたりお雑煮を食べたり(鳥取のお雑煮はおしるこなのです)、初詣に行ったりニューイヤー駅伝を父と見たり(あと風邪をひいたり)、久し振りにすごく正月らしい正月を過ごした。

最終日、両親に無断で出かけた。僕の頭の中では、夜には実家に一旦戻って、晩飯を食べて荷物をまとめてギリギリで夜行バスに乗る算段だった。

そうとは知らない父親は、挨拶もなしに東京に帰ったと思い込んで大騒ぎだったらしい。「なんだいやあいつ帰っただかいや」ってえらく寂しそうにしてた、と母が笑っていた。

その夜、車で迎えに来てくれた父本人にも同じことを言われた。「なんだあもう5年くらい会えんくなると思ったらえらく寂しくなってなあ…」と照れる父を見ながら、5年は盛り過ぎだよ!と思ったけど、下手したら本当にそうなりかねないな、とも思い直した。せめて1年に1回は帰ってあげたいと思った。何より、父がここまで自分の気持ちをストレートに言う人だとは知らなかった。同じ一人の人間として対等に接してくれ、かつ想ってくれているのが感じられて、本当に嬉しかったし、無断で出かけて申し訳ない気持ちでいっぱいにもなった。今年の正月で1番心に残った出来事だった。

親としての重荷が取れ、本音で接してくれるようになった父。これまで苦労してきた分、残りの人生はボーナスステージであってほしい。僕にできることならなんでもしてあげたいと思っている。

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かっつん
最後まで読んでくださってありがとうございます。 とても嬉しいです。また来てください。