そういえば私たちはお互いの筆跡を見たことがない
かおりちゃんが彼氏と別れたと言っている。私は神妙な顔をして頷いたり、時々彼女の手の甲に触れたりするけれど、真っ先に浮かんだのはアンダーソンが彼女に関心を持ってしまうのではないかということだ。私は彼女の欠点リストを心の中で反芻し、自分と比較してスコアをつけ始める。私は決定的に彼女に負けている。アンダーソンは根本的に馬鹿な女の子が好きなのだ。正確に言うと、あれこれ詮索したりまわりくどいことを考えない子が。
アンダーソンと知り合ったのはちょうど去年の今ごろで、数人で友達の部屋に集まって、ホラー映画を借りてみんなで観たときだった。私はまだ試験中だったのだけど、他の大学に通う友人はもう夏休みに入っていた頃だったと思う。もちろんアンダーソンっていうのはあだ名で、どういう間違いなんだという感じなんだけど、安西さんって言ったのを誰かが聞き間違えたのが何となく定着したのだった。こいつは色んな子に手を出していて本当に怖い、女の子と見ると誘うからなー、と誰かが言って、みんな笑って、アンダーソンは否定も肯定もせず、笑いながらペットボトルを弄んでいた。アンダーソンの白いロゴ付きのTシャツは量販店で売っているようなダサいやつだった。
今思えば、実際にアンダーソンに誘われてそのままついって行った女の子もたくさんいたと思うけれど、誰もそれを話題にしない。という ことは大半の女の子が秘密を共有していることになる。ゆるやかなグループでつるんでいた私たちは、探りを入れたり、牽制しあったり、またそれを悟られないようにすることに次第に心を砕くようになってしまって、そのグループで集まることもいつしか無くなっていくのだけど。
その夜、部屋の主は自分だけベッドで早々に寝入ってしまい、私たちもソファーや床でめいめい寝た。夏が始まったばかりで、まだ夜は寒くて、掛けるものが見当たらなかったので私はバスタオルを勝手に借りてきて仰向けで寝ていた。私に足を向けて寝ていたアンダーソンは、無意識のまま、脚が寒かったみたいでバスタオルと私の体の間に足先を滑り込ませてきた。身を固くしたけれど、アンダーソンの体は規則正しく上下していた。寒いってことへ素直に反応するところが子供みたいだと思った。私はアンダーソンが足をどけてくれるまでできるだけ息を殺していた。
支えあおうK市 灯そう希望の明かり
駅前のロータリーの、時計台の下に描かれた標語を眺めて、鳩を足で追い払った。アンダーソンと出かけようということになったときは迷ったし、かおりちゃんに言うか言うまいか、私は悩みすぎて何通もメールをしたためてはそれを削除した。アンダーソンの車にはダッシュボードに白いふかふかの毛皮のようなものが敷いてあった。
かおりちゃんは綺麗なのに無頓着なところがあって、別に美容とかもあんまり気にしてないのか、ダイエットじゃないコーラをガブガブ飲んだり、メイクもコンビニで売っているような安い化粧品でささっと済ませて家を出る。それなのにみんな私に感嘆したように言うのだ。あの綺麗な子はだれ?私は何をしても様にならない。
コンビニに寄ってアンダーソンがこともなげに買ったスポーツ新聞と唐揚げっていう組合せに妙に感動する。ジャンクフードをまったく気にせず食べるところが男の子の素敵なところだと思う。私の買ったパイの実は頼りなく箱の中でかさかさと鳴った。アンダーソンは落としてしまったのを踏んでアスファルトになじませた。
おばあさんが庭に水をやっている、オレンジ色の綿棒のような花弁がいくつもある気持ち悪い花。ホースの水が私たちにかかればアンダーソンも笑うだろうに。おばあさんは私たちに気付いてホースを下に向けたので水はかからなかった。
帰ろうか、と言い出してほしくないから何かしら話をしようとする。何にでも回れ右しなくてはいけない地点が来る。
白いシャツの男子高校生。多少の雨では傘を差さない。かおりちゃんは裏切られたとかなんとかいってよく泣いてるけど、自分の体だけに関心を持たれるのは悪くないとちょっと思う。気まずくなるならなれ。気まずさの半分は向こうの責任だ。
夕立が来そうな空。紳士服屋、パチンコ屋、釣具屋、牛丼屋のチェーン店。北関東の国道沿いはこの繰り返しだ。
少し寒くなったので、スーパーの二階の衣料品売り場で当たり障りのないカーディガンを買う。白々とした店内。安物を投げやりに売っていて買いに来る人も投げやりで、とにかく気が滅入る。そこでわめきたくなる。私のせいでないのに、アンダーソンが不機嫌になるのではないかとひやひやした。
「はさみなんてないよね」
「ないよ」
ライターでタグを焼切ってもらった。ぷちっと切れるかと思ったけれど細いプラスチックは引っ張ると糸を引いた。
トラックの横腹のランプ三つ。送電線が何度も重なってはまたばらけていく。
防風林を見ながらアンダーソンが煙草を吸う。濡れたアスファルトに奇妙な形の木の芽が落ちている。さっきのお菓子が何度も車に轢かれ、地面に擦り込まれてていくところを思う。かおりちゃん、分かれたらしいよ。
そうなんだ。
この防風林の向こう側はグレーっぽい波がうねっているのだろうけど、どちらも海を見に行こうとは言い出さないでいた。
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