自分ごとにして発信する【遅いインターネット】

今日は、今更感がある「発信すること」というテーマで書きます。

コロナ禍に伴い、

家で過ごす時間が増えたりしたことで、インターネットやオンラインでのコミュニケーションが以前よりも増えたように感じます。
そんな中で、一時は流行っていた「オンライン飲み会」も、「全体で同じトークテーマしか話せなくて嫌」とか、「終電の概念がなくて寝不足」、「断る時の理由が思いつかない」といったマイナスの側面から「やっぱり膝を突き合せて酒を飲んだ方が楽しいよね」となり、コロナ時代が終われば結局オフラインの繋がりに戻る気がします。

そう思うと、便利と幸せって比例しないんだなぁと改めて感じています。

インターネットが成熟した今、

日本は一億総表現者社会と称されるほど、発信についてそのハードルが低くなっています。YouTube、note、voicyなど、「何物でもない人間」が発信するプラットフォームとしては様々なものが挙げられます。

このように、インターネットを用いて不特定多数に発信するという機会は、決してメディアや広報関係の仕事についている人だけに限定されるものではありません。

でも、受信側の立場に立った時、どうでしょうか。
便利なインターネットからは、様々な情報を取得することができます。
ですが、同時にそれに付随する様々な感情も仕入れることができます。
誹謗中傷や罵詈雑言、不安からの煽り文句、特定の人物の一挙手一投足に対する批判など、数えればきりがありません。

ほとんど毎日、ネットニュースの記事が引用され、そういった世の中の出来事についてTwitterやfacebookなどのSNSで論争が繰り広げられています。

見ていて、疲れる時ありません?

きっとこれって、「何かを書く」、「何かを発信する」といった参入障壁が低くなって様々なバックグラウンドを持つ人が
①経験者も未経験者も(プロも素人も)関係なしに
②事実と感情をない交ぜにして
③単にYESとNOを

同じ土俵で議論しちゃっているからです。

トイレットペーパーの買い占め問題を例に挙げ、この考えを補足します。

① 経験者も未経験者も(プロも素人も)関係なし

「遅いインターネット(宇野常寛さん)」の言葉を引きます。

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これまで僕たちは「読む」ことの延長線上に「書く」ことを身につけてきた。しかし、これから社会に出る若い人々の多くはそうならない。彼ら/彼女らの多くはおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。これは、現代の人類が十分に「読む」訓練をしないままに、「書く」環境を手に入れてしまっていることを意味する。

つまり、現代人はSNSで「書く」という行為が日常的に先行しているため、自分の思いや物を申したい気持ちが発生したときは、脊髄反射的に大した思慮も検証もなく「書いてしまう」ということです。

この指摘が正しいとするならば、例えば、「コロナの影響で、中国でトイレットペーパーが生産できなくなったらしい!日本でも品薄になるって…ヤバくない?!」というツイートをしてしまったり、リツイートをしてしまう人が現れます。つまり、デマが発生する可能性があるということですね。

一度拡散された情報は足が生えたように日本中に駆け巡り、その後いくらテレビで専門家が「日本のパルプの輸入依存率は16%程度です!約8割は国産です!!」と叫んでも、もうドラッグストアにトイレットペーパーが常に陳列することはありません。

一般人はトイレットペーパーが品薄になりそうなことを思いついてもテレビには出れませんが、インターネットで発信をするのにプロだろうが素人だろうが関係ないですもんね。

② 事実と感情をない交ぜにして
「トイレットペーパー店頭にない」という事実に対して「買い占めをする人は許せない」という感情が混ざった場合、議論の中心は「買い占めをする人がいるのは仕方ないor悪い」になり、何の生産性もない議論になります。

なぜなら、買い占めをする人が良かろうが悪かろうが、「買い占めが起こりそうな状況になったら買い占めは起こる」からです。
話の本質を「買い占めが起こらないようにするために、一人一人にどのような行動が求められるか」とした方がきっと生産的ですよね。

③ 単にYESとNOを
再び宇野さんの言葉を引きます。

たとえば能力は高くないけれど、なにか社会に物を申したいという気持ちだけは強い人がいまインターネットで発言をしようとするとき、彼/彼女はその問題そのものではなくタイムラインの潮目のほうを読んでしまう。そしてYESかNOか、どちらかに加担すべきかだけを判断してしまう。
タイムラインの潮目を読むことは簡単だ。その問題そのもの、対象そのものに触れることもなく、多角的な検証も背景の調査も必要なくYESかNOかだけを判断すればよいのだから。

つまり、現代人は与えられた二者択一の「どちらを選べば評価経済的に自分に有利か」を考えて行動していると宇野さんは言っています。「こっちに石を投げて、こっちを褒めておけば社会的に間違いないっしょ」って感じです。

では、私たちは「何物でもない発信者」としてどのように発信を行えばいいのでしょうか。
宇野さんは、この答えについて「対象を解体し、分析し、他の何かと関連付けて化学反応を起こす能力が必要となる」と述べています。

ある記事に出会ったときにその賛否そちらに、どのくらいの距離で加担するかを判断するのではなく、その記事から着想して自分の手であたらしく問いを設定し、世界に存在する視点を増やすことだ。あらたな問いを生むことこそが、世界を豊かにする発信だ。

要するに、他人ごと(人の議題)に乗っかるんじゃなくて、自分ごと(自分の議題)に置き換えて論じた方が良いよ、ということを言っています。

例えば、

トイレットペーパーの買い占めが起こる
→ドラッグストアにはトイレットペーパーを求めてやってくるお客さんが朝から並ぶ
→情報化が進んだ今、「お店や商品の品質」なんてものは画一化されているのだから、信頼の積み重ねこそが小売店の生きる道!今こそ「お店の信頼を上げるチャンスでは?!」
→肌寒い3月なら行列の途中にストーブを置いてお客さんを温めてあげるorお店に置いてあるカイロを無償で配付する
→お客さんからすると「そのお店に対する信頼」が高まり、今までは来なかったような固定客がつく。「買い物するならここだよね」という感覚
→これを抽象化すると、お客さんは同じドラッグストアという土俵の中では、「何を買うか」よりも「どこで買うか」を重視する場合もあるよね、ということが言える
→「発信」も同じで、正しい情報が溢れている現代においては、「何を言うか」よりも「誰が言うか」が重要なのでは…?

……

といったような具合でしょうか。
「発信する時は、自分ごとに」
これをすると、視点が広がって中々楽しいです。

という訳で、本日の結論は次の通りです。

・誰でも発信できる社会になった
・発信は経験者も未経験者も(プロも素人も)関係なくなった
・事実と感情をない交ぜにして論じるといいことない
・他人が掲げた議題に、単にイエスとノーを議論しても意味ない
・自分で議題を作って、それについて色々な視点から論じると楽しい

結局、今日の記事も自戒込めまくりの自己満足文章となりました。

それでは、よい週末をお過ごしください。


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