カペラのパンダ
これは遠い遠い昭和の思い出です。
小学校にあがってまもなく、花屋をしていた実家の店にカペラさんがやって来た。 カペラさんは山形で高校を出たばかりの、ウチの親が言うには「ヒッピー」「カニ族」の青年だった。ヒッピーはわかるけどカニ族ってなんだろう?未だにわからないままだ。もう1人の友達と一緒に山形から北海道へアルバイトをしながら旅をして来て、そして我が家に辿り着いたのだと聞いた。もう1人の友達の名は「テントさん」といった。
カペラさんは背が高くて、当時の西城秀樹や野口五郎みたいな長髪で、ベルボトムのジーパンを履いた「今流行りの兄ちゃん」だった。当時はまだジーパンを履いてるオトナなんて珍しかったのよ北海道の田舎では。さすがヒッピーでカニ族だ。と思ったかどうかはわからないけど、家の中に面白くてカッコいいお兄ちゃんが増えて、ただ楽しかった。
ウチの花屋でアルバイトをしながらお金を貯めてまたどこか別の土地へ行くのだかその辺はよくわからなかったけど、なんだかんだ3年近くいた記憶がある。仕事だけでなく商店街の夏祭りなんかも手伝ったりして、町にも馴染んでよく働く真面目な青年だったのだと思う。父も母も家族みたいに可愛がって面倒を見ていた。 住み込みではなく、テントさんとふたりで近くにアパートを借りて住んでいたので普段は夕方6時になると帰って行ったが、ひと月に一度くらい母が気をきかせ、私達家族と一緒に夕飯を食べて帰ることもあった。人参が嫌いでカレーの日など私や兄がテレビに気を取られている隙にサッと人参だけを私達のお皿によけてきたり、カペラさんがいる夕飯はいつもより輪をかけて楽しかった。
ある時、カペラさんはウチに来てから初めて一週間ほどお休みを取った。東京の博物館にダヴィンチのモナリザが初来日し、それを観に行くんだという。上野の動物園にパンダのカンカンとランランがやって来て話題だった頃だったと思う。「モモ(仮名)お土産なに欲しい?」と聞かれたのでなーんの遠慮もなく「パンダ🐼」とねだったら、そこそこ大きなパンダのぬいぐるみを買って来てくれたんだよ!うれしくてうれしくて、その後カペラさんがウチを辞めて山形へ帰った後も、「カペラのパンダ」としてずっとずっと大事に飾っていた。
母が亡くなり、兄が家を離れしばらく経った後の1999年七の月。ノストラダムスの恐怖の大王は来なかったけど、花屋を畳む日が訪れ家財のほとんどを処分しなくてはいけなくなった時、他のたくさんの思い出の品々と共に「カペラのパンダ」も捨てられてしまったので、今はもう記憶の中にしか無い。
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