クロチアゼパム日記⑯ 世論と民意 2024/10/16
共同通信社による全国電話世論調査(10月12、13日)では、『自民が裏金事件に関係した前議員ら12人を小選挙区で非公認とした対応に関しては「不十分だと思う」が71.6%。』であったという。 僕は、この手の世論調査や「国民の声は○○です。」といった評論家の発言を信用しない。統計学的には信頼性が担保されている筈の調査であっても、設問の立て方や結果の見せ方への恣意性を排除しきれないし、評論家の調査能力や分析能力、そして見識を信頼できないからだ。(高市早苗総裁選候補の名演説を40点と採点するなどあり得ない。) 報道や論評の一言一句に対して「真実か?意図が潜んでないか?言及されない事実があるのでないか?」という疑いの姿勢を保たないと洗脳されてしまう。 半島の民衆は、所謂『慰安婦』や『徴用工』の補償を求めて不買運動を起こし日の丸を燃やす、大陸の民衆は『愛国・反日教育』によって日系の店舗や日本人子弟を襲う。まったく愚かしいさまであるが、この島国の民も同様に誘導され操作されている。「裏金」は、金丸信や小沢一郎のやったことであり、「不記載」は、安住淳や大石あきこ、岸田派など与野党問わず頻繁に発生している事象である。不記載事案発生の深掘りや改善への議論はあえてすっ飛ばし、「裏金」という言葉をまき散らすことは、自民党に対するネガティブキャンペーンである。野党が選挙戦略として裏金攻撃することは(賢明とは思えないが)理解できぬでもないが、マスコミが「裏金」という言葉を連発し、『世論』という文脈で語ることは悪質極まりない。
一般的に「世論は国民の多くが共有する意見であって、政治はこれを尊重すべき。」といったように理解されていると思われる。民主主義国家であるから、それはその通りであろう。しかし、『世論』なんてどこに存在するのだろうか、「今の世論はこれです」と誰が認定できるものだろうか。国民は日々の生活に忙しく、得られる情報は制約的である。冒頭の71.6%の回答者が、「裏金事件に関係した」が意味するところを正しく理解している可能性は極めて低い、そもそも何が不記載で何が裏金かを説明するコンテンツを得られていない(報道しない自由によって)。そんなことを百も承知で「十分と思いますか」と電話で訊ねることに、正義があるとは思えない。同社の『選択的夫婦別姓』についての調査も、欲しい数字を採るための設問としか思えない。このような意味のない数字、作られた数字を材料として創出されバラまかれているのが『世論』である。政治家はそんなものに迎合せずに「それは違うと思う。私はこう考える。」と主張して欲しい。主権者は、多数の意見と見せかける『世論』に影響されてはいけない。
政治家は『世論』を枕詞とする言説に迎合するな、と書いた。では、何をするべきなのか、それは『民意』を醸成し獲得することである。『民意』とは、国民の意志つまり投票行動である。政党・政治家は、「こういう国家を築きたい、こういう国民生活を実現したい。長期的課題と喫緊の課題認識はこうであり、それらに向かってこういう政策プログラムを実施したい。原資やリスクはこう考えている。」という内容を緻密に主権者に提示して、支持と投票を求める(民意を問う)ことを僕は望む。かつてマニュフェスト、アジェンダなどと呼ばれたものがあったが、そういう大雑把なものではなく、白書レベルの分析と考察、「骨太の計画」素案、向こう3年の法制化計画、各法案の骨子などが書き込まれたものである。それは政党版、候補者個人版の二部構成となるだろう。(ま、今回選挙には間に合わないだろうが、すぐに必要になる気がする。) 国民の大半は、生活費に難渋し将来の不安に悩まされている、有事やテロ、災害や治安悪化を身近なものと感じ始めている。国民はこの国のあり方について、真剣に考えざるを得ない状況にある。「消費税減税に現金給付、そりゃいいね。」「アジア版NATOは画期的。」なんていう『民意』(その案を理由とする投票)など起こる筈ない、「真面目に考えてくれ、バカにするな。」となるに決まっている。ネット配信やSNSによって、国民の政治に対する関心とリテラシーは急速に広まり高度化しているからだ。そういう人たちは、仮に『ビジョンとプログラム』とするが、上記のようなマテリアルを欲しているに違いない。同時に、説得力ある『ビジョンとプログラム』を示せてこそ、国民政党であり一人前の政治家と見做せるのでないだろうか。繰り返すが、党利党略の争点設定、実現性のない公約など透けて見えている、有権者を舐めてはいけない。 話は変わるが、今回総選挙の投票率は目に見えて高まるものと推測する。それは、「政治と金」の対する批判に因るのではなく、生活や将来の不安、危機管理に対する不安に因るもの、つまり「今のままだと危ない」と思う人の投票が増えると考えるからである。
今まさに『民意』が問われている。『民意』即ち今回選挙の結果が及ぼす影響は想像を絶するほど大きい。統治機構が無為無能と見透かされれば超限戦はいよいよ本格化してくることは間違いないし、政権の構成次第では増税が仕込まれるかもしれない。「2025年から始まる没落の20年」ってことも十分あり得る話だ。故に、主権者は このようなリスクを甘受する覚悟を持つために、この選挙にだけは参加するべきである。一票は甚だ軽いけども、今回は『民意』の当事者になっておかないと、先々後悔することになる。 無党派層にとっては、『(仮称)ビジョンとプログラム』が提示されている分けではなく、対立軸も明確でない今回選挙での選択は、なかなか難しいものであろうし、どいつもこいつもダメということもあるだろう。しかし、宗教やイデオロギー、利権に帰属するような、言うならば国民無視型組織票によって、『民意』が決されることほど愚かしいことは無い。無党派層は、自分なりに情報を収集し、自分の考察と価値観によって選択し『民意』に加わってほしい。国家運営は多面的であり複雑、政策には良い面悪い面が併存する、つまり投票に絶対的正解などはないのであるから、自らの見識を信じて票を投じるほかない。概ね日本人は良識的であり、胡散臭いものを嗅ぎ分ける力を持っている。なので、有権者の大多数が真面目に考えて投票するならば、それは賢明な『民意』となる筈だ。賢明な『民意』が下されれば、この国は延命可能だと思う。同時に、無関心や棄権が許容されるほど、穏やかな時局ではない。