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BF大学の使命

4月4日のプレジデントオンラインで朝比奈なを氏の記事として、「本人は何事にも無関心、親は入学式なのに普段着…偏差値が測定不能「BF大学」の教員がいちばん苦労すること【2022下半期BEST5】」が掲載されていました。
いわゆる「BF(ボーダーフリー)大学」とされる大学はでは「入試が選抜機能をほとんど果たしていない」状態で、「教育困難大学」の実態にあるという内容のものでした。詳細は当該記事を読んでいただくとして、ここでは私の山奥の高校での進路指導で実際にあったことをふと思い出したので、体験とそこから思ったことを一気に書かせて頂こうと思います。

参考↓↓

本人は何事にも無関心、親は入学式なのに普段着…偏差値が測定不能「BF大学」の教員がいちばん苦労すること【2022下半期BEST5】 (msn.com)


他のノートで言及してきましたが、30年ほど前、山奥の高校で教員をしていました。
(現存する学校法人の障りになるため実名は伏せます)

そこでは全国から中退生徒を集め、何とか高校の内容の教育を施し、高校卒業の資格を授与していました。

当然、3年生になると進路という問題が出てきます。
学力的には教科書の漢字を読めないため、教科書を使った授業が事実上不可能という実態でした。しかし中学校の内容は一度は勉強したというかすかな「記憶」があるため、おさらいの授業をしようものなら彼らのプライドが傷つけられ、「そんなものもう中学校で習った!」ということで教室から公然と出てゆくという反乱が発生します。テストをしていかにできないか、覚えていないかを直視させると、これまたその現実から目を逸らしたいために反乱が発生します。そのため各教科とも学力の実態と彼らのプライドの両立のさじ加減に腐心していました。

それでいて、卒業後の進路は「大学進学」を求めます。保護者の方も「大学進学」を求めます。とはいえ一般入試は当然ムリで、推薦入試も小論文が課されるところはムリでした。
そこで我々は「それでも入れる大学」を探すことになるのですが、方法としては、2つの方法がありました。

1つは「AO入試」です。

受験業者が発行する大学合格ランキングを一番下から当たっていって、AO入試に狙いを付けます。
当時は第三の選抜方法としてAO入試が出始めた頃でした。アドミッションオフィスが面談を重ねた上で出願許可を出す方法で、現在は総合型選抜と呼ばれる方法です。

慶應義塾大や早稲田大学などのAO入試は課される課題もレベルが高く相当な学力が伴わないと合格はおぼつかなかったのですが、下から当たりをつけた大学のAO入試なら「もしかしたら」と思いました。
ただ当時は「AO入試」が実際にどのように行われているかは選考の実態がよく分からず、それこそ受験しないと分からないので、人当たりのよさそうな生徒に「面談は電車賃はかかるが、受験料はいらないので、ものは試しでAO入試を受けてくれ」と頼んで受験してもらいました。

結果、大阪府内の大学に合格しました。

聞けば色々聞かれたけれど「難しくはなかった」とのことでした。
「え??そうなの?」
今ではご法度の質問でしょうが、最近読んだ本を聞かれた時のために当時の新刊の『五体不満足』には目を通しておくような指導はしました。
ということで、大学進学を希望する生徒にはAO入試をフル活用しました。


もう1つは「指定校推薦」です。

関関同立のレベルの指定校推薦は来るはずもありませんでしたが、それ以外は割と「指定校推薦」が来ました。
指定校推薦は本来は、入学した学生の人数や入学後の成績などを評価して出身校に入学枠を付与するものです。
「その大学への入学実績などないうちのような高校になぜ指定校推薦が来るの?」
最初の2~3校の時は理解に苦しみました。
しかし実は「推薦してくれるなら指定校の枠を与える」という「指定校推薦」もあることに気づきました。

指定校推薦には大学・学部が指定する「評定平均値」のハードルがあります。やはり「4.1」以上などはムリです。しかし探せば推薦基準「3.0」以上や「3.2」以上というの大学があるものです。
うちのような高校でも、それなりに受け答えができる利発な生徒には成績評価「3」は付けていましたので出願基準は満たせました。
こういうところには積極的に出願しました。
当然、「推薦してくれるなら指定校の枠を与える」という大学の推薦基準はそれこそ「BF(ボーダーフリー)」でした。

結果、近畿圏内の大学に合格しました。

中には、遠路ははるばる山奥の高校までやって来て、「ここで色よい返事が欲しい」という大学もありました。あまりにもただでは帰りそうもないので「九州の大学にはさすがに行こうという生徒はいないんで」と話を終わらせようとしましたが、「奨学金も寮もありますから。何なら先生のご自宅の近くの喫茶店ででもお話の続きを…」という(ちょっと怖い)大学もありました。
立場は我々山奥の高校と同じで「入れてから責任をもって指導します」とおっしゃる大学もありました。

指導困難な生徒については、進路に携わる先生は、本当は大きな疑問を抱きながらも、中学校の先生は「高校が入れたんだから」、高校の先生は「大学が入れたんだから」ということで「卒業後の進路を確保した」として自らを納得させていました。

何だか過去の暴露話になりましたが、私はこれを「良からぬこと」とは一概に捉えるつもりはありません。

現在の日本では学校が入学の許可を出す仕組みなので、学力如何に関わらず、高校も大学も「入学を許可」すれば合格なのです。

厳しい言い方をすれば、入学者が学力を伴っていないことは、入れた高校・大学の先生は当然認識しているはずですし、そうであるべきです。それが入れた側の責任です。経営的にはやむを得ないとはいえ、入れておいてから大学の先生方が「学力が伴わない」「意識が低い」と嘆くのは、無責任でしょう。ならば学力を伴わないものの、大学の学問の「一端」に触れさせることで、彼らの脳裏になにがしかの化学変化が起こるきっかけを与えるべきだし、彼らに伝わるような伝え方、方法を真剣に模索するべきです。

いわゆるBF大学の使命は入学者に何らかの化学変化を起こさせる、あるいは化学変化のきっかけを与えることであると思います。
その化学変化はおそらく学問的なものほど遠いでしょう。しかしその学生がやがて社会で生きてゆく上での何らかのヒントや気構えが大学4年間で得られれば、それおこそ使命を果たしたと言えるのではないでしょうか。
問題は、学問研究の世界で生きてこられた大学の先生方が、ご自身の研究の側ら、そこまで情熱を傾けられるかどうかでしょう。


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