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楽譜が書けるようになるまで
音楽は小学校で6年間、中学校で9年間学んだが、からっきしダメだった。
かといって音楽が嫌いなわけではない。歌うことは苦ではなかった。聞くことも苦ではなかった。ドボルザークだの、ヨハン・シュトラウスだの、ビゼーだの、小中学生としては多少、クラシックの作曲家の名前も知っていた。
でも、楽譜が全く分からなかった。音符が分からなかった。四分音符は分かったが、二分音符? 八分音符?? 十六分音符??? 休符????
4分の4拍子は何となくわかったが、4分の3拍子って何?
何が「4分の3」なの? じゃ残りの『4分の1』はどうなった?
こんなのだから「8分の6」になると「なぜ約分しないの?約分したら4分の3だけど」となってしまう。「#」や「♭」も分からなかった。半音上げてとか、半音下げてとか言われても、自分の感覚ではずっと「ドレミファソラシド」。反復記号に至ってはどこに戻っていいかが分からず、もう迷子状態。こんなのだから期末テストで楽譜の中を( )で抜かれたらどうしようもない。ペーパーテストは30点あったかどうか。
和音もわけが分からなかった。いきなり「レ・ファ・ラ」の鍵盤を鳴らされて、「これは何と何と何の音ですか?」なんてひどすぎる。
五線の第5線に#があったらト長調かホ短調なんて、「何でわかるの?」の世界。机に座って受ける音楽の授業は苦痛以外の何物でもなかった。
音楽の先生は大方、子供の時からピアノなんかやってきて、ほぼ無意識化している初歩のルールだから、このルールが分からない生徒に対しては「何で分からないの?」という心境だったろう。そう、野球好きのひとが「インフィールドフライ」を理解できない人のことを理解できず、サッカー好きが「オフサイド」を理解できない人のことを理解でず、日本人が「『りんごが食べたい』の『が』が目的を表すことを理解できない外国人が理解できないように。
いまでも音楽の授業は基本的には変わっていないだろう。そもそも教科書の内容がそこまで生徒目線まで下りた内容になっていないのだから。先生はそれに従って教えるしかない。音楽のルールを知らない児童・生徒にとって、ルールを知らずにサッカーをやらされるようなもの、足し算を習わずに方程式を教わるようなものだ。
そんな自分が、今では音楽の補助教材を編集しているのだから可笑しな話だ。しかし編集作業をしながら、昔と変わらない教科書の内容にはやはりイライラに近い不満が溜まる。「長調」や「短調」も、「これが長調」「淋しいイメージだからこれが短調」的な上から目線の記述。もっと視点を変えられないものか。
「構造が分からなくても、安全に車を運転できればいい」「力学が分からなくても自転車を安全に乗れればいい」というのと同じでいいのなら、楽譜や調の知識は、日常で音楽を楽しむ上で全く必要ない。カラオケで歌ったりコンサートを聴くのに何の不自由もない。より深く味わうためにバックボーンの情報があればその方がありがたい。それでいいと思う。つまり、音楽の教科書や授業が一通り教えましたというアリバイを作るために「あれもこれも」てんこ盛りになっているだけのことではないか。今では誰もがカラオケボックスで自分の声質に合わせ、タッチパネルでキーを上げ下げしてハ長調の曲をニ長調で歌うという「高度な」ことをやってのけるのだから、それを前提にした音楽教育に組み替えるべきだろう。でも今だに文部科学省の学習指導要領では「移動ド唱法で指導する」なんてことをおっしゃってる。「移動ド」「固定ド」の概念は、現場の先生ですらさすがに教え方がわからないので、実はスルーしている現実を知らずに。
私が音楽に触れだしたのは、20代半ばで山奥の高校に赴任したときだ。様々な問題を抱えている生徒ばかりの学校なので、自分も「教える」姿勢ではなく「チャレンジ」する姿勢を生徒と共有しようと思い、まずは興味のあったフォークギターを始めた。楽譜は読めないが、楽器って弾けるようになるものだ。弾き語りもできるようになるものだ。いつの間にか知識ではなく“感覚的”に「スケール」も分かるようになった。ドミナントセブンスからトニックへの帰着も感覚的にいつの間にか分かった。「D7からはGに行きたいな」「G7からCに行くと終われるね」という感じで。メロディさえわかれば、あとはコードを付けた歌詞カードがあれば福山雅治の「桜坂」も弾き語りができた。
それから20年ほど我流で通し、いろいろ感じるところがあって、今ではギター教室に通っている。そこで困ったことが起こった。希望曲のレッスンをするためには楽譜が必要だと言うのだ。福山雅治やサザンなら楽譜はいくらでも溢れてる。でも私はマイナー志向だったから… そう、楽譜が…
「ない」
ドラえもんのポケットでもマイナーミュージシャンの楽譜は出てこない。それくらいマイナーなのだから。じゃ、どうする?
今まで「音楽に楽譜は要らない」と思ってきた。楽譜がなくても歌えるし、ギターは耳コピで弾ける。しかしこのメロディを人に伝えるためにはどうするか。自分で作った曲を形に残すためにはどうするか。いつでもどこでもギターを持ち歩くわけにいかない。人前で一回一回、鼻歌で聴かせるわけにもいかない。ケータイに鼻歌で録音して聴かせるの? そこで紙に記号で残して、しかも再現できる「楽譜」という共通言語に行きついた。初めて分かった。楽譜は読むものであると同時に、自分のメロデイを人に伝えるために発明された最高の伝達ツールだったんだと。ましてやレコーダーの無い時代は、まさにこれしか再現する方法がなかったんだと。
そこで意を決して自分で楽譜を起こすことにした。それしか方法はない。「4分の4拍子」とは1小節の中に4分音符が4つ入っているリズム、「4分の3拍子」は1小節の中に4分音符が3つ入っているター・ター・ターのリズム。そこからスタート。楽譜が見やすくなるようにできるだけ小節の中は前2拍と後2拍に分けて書けるようになった。尾崎豊の「卒業」が3連符で構成されるリズムだということもわかったし、それを「8分の6拍子」で書けることもわかった。サビの繰り返しからエンディングに飛ぶには「ダルセーニョ・アル・コーダ」を使えばいいことも分かるようになった。何も考えずに使っていた「Gメジャー」が「ト長調」であることも分かるようになったし、ソからスタートして長調で納めるにはファを半音上げなければならないことも分かるようになった。
作譜ソフトの「MuseScore」には随分助けられた。一つの音符を入れると残りの拍数が休符としてその都度示されるのでとても便利だ。並べた音符は再生して聴けるので正しく入力できたかも確認できる。専門家は「Finale」を使うようだが、私はもっぱら「MuseScore」。いやはや便利になったものだ。手書きならちょっと挫折したかもしれない。今では忘れたくないメロディがあれば駅のベンチでケータイのピアノソフトを触りながら楽譜をメモしている(ピアノを持ち歩けるんだからケータイも便利になったものだ)。
「必要」を感じたら「学び」は速いもの。そこには必要に応じてチョットだけのアドバイスがあればいい。もちろん、自分の作譜レベルなんてプロの音楽家からするとヨチヨチ歩き以前というか、お笑いの世界だろう。人のために書けるレベルでは全くない。でもこれが一般人の現実。でも不自由はないし、あれもしたいこれもしてみたいとも思うし、されにリズム譜はどう書くのか?と新たな必要性も感じている。
楽譜の必要性が分かった時の感動を、他の人にどう伝えたらいいのだろう。
こう思うと、小学校・中学校で受けた「音楽」の授業って、いったい何だったのだろうと、ふと思ってしまう。