歴史についての単純なギモン~江戸幕府の大名配置について~

“ 江戸幕府が長続きしたのは、信頼できる譜代大名を江戸の近くに配置し、信頼できない外様大名を遠隔地に配置するよう、大名配置に細心の注意を払ったからだ ”

という説明を、小学校の時から聞かされてきました。今でも小学校、中学校、高等学校の教科書、参考書、ネットで公開されている教育委員会の学習指導案など、どれもこれもこのような説明が施されています。テレビの歴史教養番組でもそのような説明がなされています。

遠隔地の外様大名の例として鹿児島の「島津家」、山口の「毛利家」、金沢の「前田家」、仙台の「伊達家」、熊本の「細川家」、豊後の「黒田家」が引き合いに出されます。確かに江戸から遠いですね。

でもよく考えてみてください。
もともとそれらの領地はそれぞれの大名の「本領」だったのでは?
島津家の本拠は代々鹿児島です。毛利家の本拠は代々山口です。前田家の本拠は利家以後は金沢です。伊達は本拠が何度か変わりますが、仙台は政宗にとっての念願の城でした。つまり関ケ原合戦を何とか生き延びた有力大名の本領を安堵して手なずけようとした結果がたまたま遠隔地の鹿児島であったり、山口であったり、金沢であったり、仙台であったりしただけなのではないでしょうか。「とりあえず本領を安堵するからこれ以上逆らわないでくれ」と。特に島津や毛利に対しては。大名にとって最も嫌なことは先祖代々からの支配が定着している土地から引きはがされて他所に移封させられることでした。何の縁もゆかりもない土地で領民を一から統治しなければならず、反抗一揆を鎮められなければ切腹・改易が待っているのですから。

幕府が本気で外様大名を警戒していたのならば、他所の遠隔地への移封でしょう。でもそうはしていません。遠隔地の有力外様大名の本領を安堵していたら、目が行き届かないところでどれだけ地力を養うかわかりませんし、現に島津はそうして富を蓄積し、倒幕の一大勢力になりました。地方の重要拠点に歯向かった外様大名を置いたままにしておくのは危機管理とは明らかに矛盾していますよね。

地方の外様大名は、その本領を安堵してやることで徳川家との信頼関係の礎をつくり、その一方で、その狭間にうまく親藩や譜代大名、あるいは細川や黒田など、早期に徳川家康に信服・帰順した外様大名を配置し、警戒すべき外様大名どうしが連携できないようにしたのではないか。それこそ幕府が心を砕いた大名配置だったのではないでしょうか。大名領は今のような県境できれいに割れるものではなく、様々な飛び地が錯綜し、そのうえ各地に重要な港町までが点在しています。これらモザイク模様のような領地に大名をパズルのように配置することに幕府の最新の注意が図られたのではないでしょうか。

こう考えてみると、
“ 江戸幕府が長続きしたのは、信頼できる譜代大名を江戸の近くに配置し、信頼できない外様大名を遠隔地に配置するよう、大名配置に細心の注意を払ったからだ ”
という巷や教育界で語られる通説には到底、理解・納得ができません。
そもそもこの通説、誰の研究・学説に基づいたものなのでしょうか。仮に古い高名な先生が言及されたものであるとしても、それは実証研究に基づいたものなのでしょうか。
確かに江戸・上方に近い所は譜代大名が多いですが、それは豊臣秀吉による大名配置でもそうでしたし、織田信長でもそうでした。織田信長が本能寺で倒れる直前、ほぼ丸腰で京都を闊歩できたのは、第一の親衛隊長でもある明智光秀の軍団が坂本城と丹波国を押さえていたからです(その明智光秀に裏切られますが)。つまり「譜代大名を江戸から近い所に配置した」というのも当たり前と言えば当たり前のことで、江戸幕府に限ったことではありません。それ以上に、遠隔地の外様大名に本領を安堵したことと「外様大名を遠隔地に配置した」ことがどうしても論理的に符合しない感がいなめません。

自分の上記の思い付きが正しいとは考えていません。
ただ、ふと、上記の見立てをした場合、巷の通説が全く説得力を感じなくなってしまったのです。

これをお読みの大学の先生、高校の先生、在野の研究者の先生、歴史に興味をお持ちの方、どなたでも構いません。もしよろしければこのモヤモヤを解消できるよう、ご教示を頂けますでしょうか。お待ちしております。

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