高校生の学力不足の現実
1.はじめに
よく、高校生の学力低下、大学生の学力低下が指摘されますが、皆さんは「高校生の学力」について、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
たぶん、高校入試を通っているのだから、中学校の学習内容はそこそこマスターしていることとお思いでしょう。少なくとも、小学校で習う学習内容は分かっているものとお思いでしょう。
しかし現実は違います。小学校で習う学習内容の理解もたどたどしい生徒が実際にはいます。それも一人や二人ではなく。
2.教科書の漢字が読めない高校生
私がいた山奥の高校では、高校で使用する教科書の漢字が読めない生徒が何人もいました。明らかに高校で学習活動を行うために必要な学力を身につけていないのです。これでは「教科書を読む」という学習行為は不可能になります。
私は「日本史」「世界史」「政治経済」の担当でしたが、他教科に目を移すと、数学では分数の割り算が出来ない生徒、小数点を含んだ掛け算や割り算もできない生徒はいました。英語ならアルファベットからやり直し。
教育学の研究や教育実践の報告からは、そういう場合にどうすれば良いのかは参考になるものはなく、何の役にも立ちませんでした。そりゃそうでしょう。教育学や教科教育論の議論はそのような生徒の存在を端から想定していないのですから。(もっとも生徒指導論の分野では議論されていますが、教科指導には直結しません)
彼らの中には明らかに学習やコミュニケーションが困難な生徒もいましたが、多くは普通のコミュニケーション能力を持っており、タメ口はともかくとして普段の会話は至って普通でした。しかし教科書をまともに読めないのだから、授業は苦痛以外の何物でもなかったでしょう。
皆さんは、なぜそのような高校生が存在するのか自体を不思議に思われるのえはないでしょうか。高校入試があるのに、なぜ1年生の教科書の漢字が分からない生徒や分数の割り算が分からない生徒が入学しているのかと。
3.原因:制度的問題
その要因は二つあります。一つは制度的な問題。いま一つは経営的な問題です。
制度的な問題については、公立高校入試に多く見られます。
評判の宜しくない高校は受験生に敬遠されるため、競争率が低くなります。成績が低い受験生はとにかく合格できるところを求め、そのような低倍率校に集まることになります。決して偏差値で決められているわけではありません。そのような志望動向が固定化してしまっているのです。
それが証拠に皆さんの身のまわりで、将来、国公立大学を目指そうというお子さんが、指導困難校(いわゆる底辺校)をあえて受験される方はいらっしゃるでしょうか。いませんよね。進学実績のいい、いわゆる上位校を受験されるでしょう。
倍率1.01倍なら約1名の不合格者が出るはずですが、公立高校の場合、予定されている定員を必ず満たさなければならないため、入学辞退者が出た場合に備え、全員合格にしてしまうことがあります。ですから入学試験日の時点で端から定員割れを起こしていれば、受験者は全教科白紙答案を出さない限り、原則全員合格となります。そして定員を満たすまで二次募集、三次募集を行います。全日制の二次募集はさすがに倍率が上がりますが、定時制の二次募集は定員割れのオンパレードです。つまり教育困難校では、入学者選抜のための試験を行いながら、全く「選抜」できない(していない)状態で全員合格にしているケースが往々にしてあるのです。
これは春先に新聞などで公表される実質倍率の一覧表を見れば容易に確認できます。約三十年前まで京都府で行われていた全府一区の総合選抜制(行きたい高校は選べない)ならそれは避けられますが、その制度はもはや日本には存在せず、合否は各高校ごとの定員で決められています。
原因:経営的問題
経営的な問題は、主に私立高校において見られます。受験生が集まらない私立高校は内申基準を低く設定し、9教科21くらいまで下げています。中学校の成績で「2」が大半で「3」がチラホラがこの成績です。また内申基準に満たなくとも「クラブ活動3年間継続で+1」として下駄を履かせます。こうして内申基準をクリアすると実際の入試はほぼ「セレモニー」で、ほぼ合格します(ここで「ほぼ」と言ったのは、教育界では合格を「確約」することは公然のオフレコになっているからです)。その受験雑誌に掲載される「実質倍率」で分かります。実質倍率1.0ということは「全員合格」ということです。
また中学校の成績をほぼ見ないケースもあります。
それこそ学校法人の経営を維持するために、学力の下限を設定せず、作文などによって学ぶ意志が確認できれば合格にする。そういうケースが往々にしてあります。私がいた高校もそのようにして、形ばかりの「作文入試」を行っていました。私も中学校回りをしたときには、「高校で学びたいという意思を尊重し、そのチャンスを与える学校です」と進路担当の先生に力説していました。口には出しませんがお互いに「学力に問題がある生徒を受け入れる高校」という暗黙の了解がありました。
公立にしろ、私立にしろ、本当は好ましくないとは思いながらも、意図的に、中学校は学力困難な生徒を押し込み、高校はそれを引き受けて合格させているという現実があるのです。
4.終わりに
しかし私は、それが悪いとは思いません。社会が高度化している現状では、内容を理解できるかどうかはともかく、少なくとも高校レベルの学習内容に「触れる」機会は必要で、「そういえばそんなことを習った」という記憶だけでも持たせて社会に送り出すことは必要だと思います。しかし3年間で学習指導要領の定めるレベルまで全てにおいて全員の学力を引き上げるのは現実には不可能です。ですから自己の学力の現実を直視して、その上で社会で生き抜いていくために必要なことは何かを考えさせることがとても重要になります。
問題はその現実が直視されず、不都合な現実には目を向けないまま(目をそむけたまま)「これからの社会に必要な教育」などが議論されて学習指導要領が改定され、いかに学習指導要領に沿った授業の組み立てるが考えられているという、空疎な取り組みが行われていることです。そのためのプロセスは教員一人の努力や有志に委ねられ、制度としては何もケアされていないのではないでしょうか。