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イベントレポート 内山節先生【質疑編】

 先日の記事では、内山節先生の「村とは何かを考える」というテーマのご講義を紹介しました。これからの村のあり方を考えるにおいて、非常に重要な考え方を学べたように思います。今回の記事では、講義編に引き続き、参加者と内山先生のやり取りを質疑編として紹介していきます。

1. 地域づくり団体のあり方について

Q. 自分は葛尾村に何度も訪れる中で、この場所に対して地元のような感覚がでてきた。自分はそのような感覚を持っているし、持っていたいと思う。地域づくりというのは、そのような感覚を持って欲しいという取り組みだろう。しかし、持ちなさいというのはある意味暴力的な行為であると思う。そのような中で、地域づくり団体ができることは何か?

A. コミュニティという言葉は1800年代くらいまでは古い社会のあり様であった。ヨーロッパ諸国は領主権力が強く農民が奴隷状態に近かった。コミュニティには、そのような古い時代の強制という側面があった。そのため、コミュニティ社会から市民社会がよい変化だとされていた。その基盤を作ったのは、R.M.マッキーバーだ。彼が大々的にコミュニティはいつの時代にも必要だと主張した。「コミュニティというものは、人間が作ることはできない。勝手に生まれるものである。しかし、人間は共同行動(アソシエーション)をすることができる。多様なアソシエーションが展開すると、コミュニティが生まれてくるのが早まることがある。ただ、コミュニティそのものは作れない。」というのが彼の考えだ。アソシエーションとコミュニティをここまで分ける必要があるのかとは思うが、人間がつくることができる領域に自覚的になることは必要かもしれない。例えば、稲刈りイベントやお祭りは作れる。ただ、そういうことをしたらコミュニティが生まれるわけではなく、そういうことを積み上げてきた先にコミュニティ(永遠の場所・関係)が生まれるのだ。アソシエーションというのは、目的がはっきりしている共同行為だ。例えば、宗教的目的の実現のための教会が挙げられる。コミュニティというのは、永遠不滅の1つの集まりではなく、コミュニティ自体の集合体だと私は考える。上野村では、集落・職業別・檀家・氏子・地域文化維持など様々なコミュニティがある。それはしっかりしたものもあるし、そうでないものあるし、大きいの小さいのもある。そういうものが集積した状態がコミュニティ型社会なのだ。コミュニティであるかどうかは、メンバーが困ったときには助けに行けるのかどうかで決まる。今の上野村で強いのが子育て世代のコミュニティだ。子供の成長とともにメンバーは変わっているにも関わらず、強いコミュニティを作っている。伝統的な社会のもとでは、コミュニティの中心に信仰があった。宗教とは言い難いような。これからのコミュニティが信仰を持つのかはよくわからない。田舎のコミュニティにはやっぱり信仰があるような気がする。


2. 修験道および組織について

Q. 田舎が信仰を持つのは自然があることが大きいのか?

そう。その観点で言うと、回復出来たらいいと思っているのが修験道。昭和21年まで修験道ができなかったため、地下水脈的にしか行われていなかった。文献のない信仰で、山に行って修行するだけである。そのため、伝承が大変だ。役行者が600年代後半に今の形を作った開祖とされているが、昔は修験道の全国組織は存在しなかった。行く山によって独立していることから、元は総本山がなかったのだ。総本山は幕府の命令で無理やり作ったものに過ぎない。修験道は檀家を作らないから、修験道に入りたいと言っても、これからも山に来てくださいとしか言えない。しかし、全部独立していたのに全国ネットワークができていた。誰も取り仕切らないのに、全国から米の寄進が集まっていた時代があったのだ。大きいところには坊さんがいるが、小さいところがそうとも限らないのが修験道である。そのようなネットワークを回復できないかと考えている。

Q. 修験道が衰退した転換のタイミングはいつか?

A. 明治時代の弾圧。修験道の中心は自然で、自然的人間になることが目的である。そのため、国家には従わないし、殖産興業は人間を汚す行為だと考える。産業はあくまで暮らしていくための単なる手段でしかない。だから修験道と明治政府は対立した。

Q. 最近ティール組織などと言われるが、そのような組織は昔の日本にあったのか?

A. 明治以降の新興宗教はがっちりした組織を作っている。しかし、現在、組織維持が難しくなっている。がっちりしているがゆえにもろい。既存の仏教や寺院の方が実は強い。組織があるのかないのかわからないくらいいい加減であるにも関わらず、それでも何かあると坊さん呼ばなきゃいけないってなる。結局、今の組織はほとんど間違っている。軍隊が組織論の原点。軍隊は緩やかじゃ困る。それを無意識のうちに応用してしまった。強固な組織がいい組織だってなってしまった。企業は軍隊のコピーである。そういう組織が機能しなくなってきている。生産性が上がらないし、働く人も面白くない。よくわからないんだけど動いているんだよねっていう組織、いろいろな関係があってそれが感じられるような組織を作らなければならない。


3. 自然との付き合い方について

Q. 先生の話を聞く中で、最初は自然は隣人のようなイメージなのかなと思っていた。しかし、聞き進めていく中で、隣の家の人という感覚よりかは、もっと重い比重を占めているものであるように感じられた。その点についてどのように考えているか?

A. かなり比重は重いでしょう。ただ、一緒に村を作っている仲間でもあるし、隣人でもある。神や仏というのは村にいるとそういう感じである。つまり、手の届かない上の方にいる存在ではなく、村に一緒にいる存在なのだ。しかし、神や仏は自分よりも力がある。自然でいうと、大雨や洪水など人間にとって不利益なことを引き起こす力を持っている隣人である。日本の自然は人間にとって良いことも悪いことも引き起こす存在である。ただ、最近の大雨による被害のニュースなどを見ると、なんでこんなところに家を作ったの?というような場合が多い。昔の知恵が失われているのだ。つまり、強大な自然とどう付き合うかというのは、隣の家にものすごい力持ちがいるというような問題である。そのときに、人間の方が知恵を最大限に使って、困った面を最小限に抑えることを試みてきた。昭和20年代くらいまで農業関係の学者から洪水を防いではならないという意見があった。洪水自体は被害を与えるが、山からの新しい土によって土壌改良がおこなわれるのだ。実際に、全国にそのような言い伝えがある。現在、農薬や化学肥料によって自然の土壌改良を使わなくてよくなってしまった。それによって、洪水は全く悪いことになってしまった。短期的には悪いことであっても、長期的には良いことはたくさんある。そこに向き合って、人間が知恵を使っていくことが重要だ。

Q. 隣に住んでいるものすごい力持ちとしての自然とは、村というようなコミュニティの単位で付き合っていかなければならないと思う。その付き合い方は先の世代の人たちから後の世代の人たちが学ぶものなのか?

A. そう。付き合い方は地元の年季の入った人たちが1番知っている。そういう人たちの後ろを付いていくことが最も学びになる。都会の流儀と田舎の流儀の違いの中で、私が1番大きいと思うのは会議の進め方だと思う。都会では、昨日引っ越してきた人が対等に意見を言える場合が多い。一方、田舎でも建前上はそうなんだけど、昨日引っ越してきた人が堂々たる意見を言うとあまり周りの人はいい顔をしない。それは閉鎖的だからではなく、まずその土地の流儀を身に着けること前提だと当たり前に考えているからである。大工仕事でも米づくりでも技術を身に着けて初めて対等に話ができるようになる。いろいろなことを決めていくときに、新しく来た人間はみんなの物事の決め方を観察することが重要である。「皆さんの考え方は古い!」なんて言ってしまったら地域の人はいい顔をしない。それが伝統社会である。

Q. 「郷に入らば郷に従え」のようなあり方を学ぶ場所は神社や寺のような信仰の場であったのか?

A. それもあるけど、地域の人とよく付き合っていれば自然に学べる。私は上野村にもう50年くらいいるけど、まだ分からないことがある。それは葬式のときにどういう態度を取るか。集落ごとにも違いがある。東京だったら、とりあえず行ったら喜ばれるかな、香典は1万円くらいかなとなる。しかし、村だと難しい。私の集落だと3千円という暗黙の近所づきあい料金がある。その前に私がいたところだと、近所づきあい料金は1万円であった。3千円と決まっているところで1万円を出したからと言って何か起こるわけではないが、そのように金額を決めることによって皆が出せるようにしている。村の人はちょっと私お金が大変だから私出せないというのはとても気持ちに引っかかる。だから、無理してでも出す。そのようなことを止めるために、村には様々な決まりがある。そういうものは聞けばいいと思う。



一般社団法人 葛力創造舎

 葛力創造舎(かつりょくそうぞうしゃ)は、通常なら持続不可能と思われるような数百人単位の過疎の集落でも、人々が幸せに暮らしていける経済の仕組みを考え、そのための人材育成を支援する団体です。

余田 大輝

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