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擬似親子

葬儀から一夜明け家族と迎える朝。
まだ10か月の息子は朝早くミルクが欲しいので泣いて起き、その泣き声に4歳の娘も目覚める。
昨日までの非日常に浸されることなく、日常が迫ってくる。
日常で、昨日が非日常か?
20日までが日常だったら21日からもうこの世に師匠がいないと言う非日常がこれからの日常として塗り替えられていく。
日常とは何だろう?
そんな事をぼんやり考えると少々のネガティブな感情が緩和される。
諸行無常。

15年弱、師匠雀々の弟子として過ごした。
落語はもちろん師匠の色んな表情や行動、私生活を見てきた。
汗だくになりながら爆笑をかっさらっていく高座、
友達に囲まれ楽しく飲みながらの馬鹿話、
ゴルフコンペの朝は必ずマクドでソーセージエッグマフィン食べながらFM802が流れる車内、
奥さんとのけんかをのらりくらりかわそうとする様、
著書「必死のパッチ」に一冊一冊サインする真剣な横顔、
寝る前にスタバのコップで焼酎の水割りを作り寝室にむかっていく姿、
お風呂に入りながら突如はじまるがまの油の口上の稽古、
ガニ股で特徴のある歩き方、
意外と弱いアドリブ、
しくじった私をおもいっきり怒る時の右側から険しくなっていく顔、
お刺身が得意でなくお客様にバレないようそっと私のお皿に移す瞬間、
あげたらきりがない。

あの大きな顔で喜怒哀楽がとても分かりやすい方でしたが、そんな中で一番印象に残っているのは、枝雀師匠の話をする時。
どんな機嫌が悪くても必ずとても穏やかな顔で思い出話をされるという事。

修行中、怒られると決まって最後の方には、
「別に頼んで弟子になってもらってるわけちゃうねんからいつ辞めてくれてもええねん。その方が俺も楽、俺は天涯孤独の人間なんやから。」
厳しいお言葉である。
ただ天涯孤独と言うのはやっぱり幼少時代の影響なのかと考えてしまう。

そんな天涯孤独を救ってくれたのが枝雀師匠なんだと思う。
師匠ほど枝雀師匠の事を好きだと感じる人を見たことがない。
入門してからあらゆる事を教えてもらったが、
「師匠と弟子と言うのは擬似親子や。」
と常々言われた。
枝雀師匠は天涯孤独の師匠を子供として迎え入れたのだろう。
枝雀師匠が出棺の様子を見たことがあるが、それはそれは師匠は大号泣で子供のようだった。
擬似親子の枠を越えた本当の親子のよう。
天涯孤独を救ってくれた枝雀師匠は先に旅立ちまた孤独になった。

見渡すと全く孤独じゃない。
ご家族、落語仲間、沢山の友達。
けど枝雀師匠の存在は一番でかかったのは間違いない。

私の修行中、師匠は必ず枝雀師匠の落語を聴きながら寝ていた。
そして枝雀師匠が夢に出てきた日の朝はそれを嬉しそうに、そして穏やかな顔で夢の内容を話してくれた。
写真の帯源の帯は、師匠が枝雀師匠に買ってもらった帯でボロボロだけど修繕して最後まで使っていた。
もちろんご遺体に巻いた。

入院して一度目に倒れて復活した時に、
師匠「三途の川は嘘やな。真っ暗やった。」
とおっしゃったので
私「じゃあまだお迎え来てないんですよ。リハビリ頑張りましょう。」
と話した。

二度目は呼吸器が付いてたので声はほぼ出ない状態、
私「師匠、今度も真っ暗でしたか?」
師匠「(首を縦に振る)」
私「やっぱりお迎えまだですわ。まだ残っとけって事です。」
ただ奇跡が起こらない限り内臓がダメなのがわかっていたので
私「今誰に会いたいですか?」
師匠「枝雀師匠。」
私「いや生きてる人でですよ!」
咄嗟に突っ込んだが穏やかな顔をされたので本心だとすぐにわかった。

臨終の場、私はいなかったが話を聞くと奥さんと息子さんが一生懸命励ましていた。
しかしもういよいよと言う時に奥さんが
「頑張ったね、辛いよね、もう枝雀師匠のとこに行ってもいいよ。
後はこっちでなんとかするから。」
そう言うとすぐ苦しむ事なく心臓が止まり穏やかな顔になったそうな。

落語のネタ、地獄八景亡者戯では三途の川に飛び込むと生き返ると鬼の船頭が説明する。
一度目、二度目は三途の川行く手間で戻ってきたけど、最後は枝雀師匠が三途の川の前まで痺れ切らして迎えに来てたんちゃうやろか。
そして今頃は呉春でも飲みながら、枝雀師匠に振り回されてそれを嬉しそうに追いかけている気がする。

本当に落ち着きのないベテランでした。
だからってこの世もそない急いで行かんでもってやっぱり思ってしまう。
まだまだ喋りたいし、聞きたい事がいっぱいあった。
けど枝雀師匠と一緒で枯れる事なくあちらに向かわれたな。

残念なのは師匠と私は「親子」になれず「師弟」で終わってしまった気がする。
15年かけて少しづつ親子には近づいていた感覚はあったが時間が足りなかった。

距離の問題ではない。
私の修行が明けた年の10月から師匠は東京に拠点を移した。
その時私ともう一人修行中の弟子がいた。
東京に拠点を移す数ヶ月前一緒に飲んでいると、
師匠「今修行中の弟子は修行期間少し短いけどネタも持ってるし、10月に年季明けさせようと思っている。」
私「師匠の判断ですので、異議ございません。」
そして、
私「師匠、私も一緒に東京に行きます。」
師匠「それは絶対にあかん。東京に拠点を移すけど、うまくいく保証は一つもない。そんなもんにお前を巻き込められん。お前はまだ2年、これから色んな落語会で前座として使われる。そこでしっかり頑張れ!
そんで俺がもう大丈夫となったら呼んだるからその時まで大阪で力を蓄えろ。今東京についてくる事は師匠命令で許さん。」
師匠の言葉を信じて大阪に残る事になった。
残念ながら修行中の弟子は年季明け前に辞めてしまった。
もう数ヶ月我慢すればよかったものの。
そして周りは弟子を置いて一人東京にと批判してたが、師匠の考えはわかっていたので師匠を批判していたら、事情を説明して理解してもらっていた。
そして入門して10年の時、師匠と相談の上東京に拠点を移したのだった。

こうやってだいぶ端折って書いているが、色んな思い出が溢れてくる。
けどこれ以上書いたら散文すぎるので、また別の機会に思い出は記そう。

お葬式で数珠が切れた時に師匠から色んな課題とバトンを受け取った気がする。

ここから少々告知にもなりますが課題と関わりがあるのでご容赦を。
3月22、23日の夜2日間、日暮里サニーホールのコンサートホールで15周年の独演会をする事を倒れる前から決めていた。
まだチケットは発売ではないが会場も押さえて、ゲストも決まり22日は月亭方正兄さん、23日は柳亭市馬師匠にお願いしている。
ただネタをどうしようか悩んでいた。
決めた。
地獄八景亡者戯に挑みます。
私が修行中師匠は50歳で50ヶ所地獄八景で周るツアーをしていてほぼついていっていたので、ある程度身体に染み付いている。
師匠から勝手に受け取った課題に取り組みます。

「そんな課題渡してないわ!まあけどやったらええがな。」
と言う師匠の声が聞こえてきそうです。

師匠、今度お会いするのはネタの中です。
師匠が滑らないよう一生懸命稽古しますんで、見といて下さい。
あかんとこがあったらネタの中でなく夢枕に出てきて下さい。
師匠、本当にお疲れ様でした。
師匠、本当にありがとうございました。
そして師匠、本当にさようなら。
私もそちらに行ったらまた師匠の弟子にして下さい。
師弟ですが、擬似親子、いやそれ以上になれるよう頑張ります。

最後まで長文駄文にお付き合い頂きありがとうございました。
事務所からの発表もあったように詳細は決まってないですが後日、お別れの会を予定しております。
正式に決まりましたらお知らせ致します。
けどこれだけ書いといて言うのもなんですが、私の中で師匠はまだ生きています。
それは皆さんの中でもそうではないでしょうか?
それをあちらこちらで話して下さい。
その方が喜ぶと思うので。

生前のご厚誼に深謝致します。

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