佐伯哲也のお城てくてく物語 #2
第2回 城兵はヒマだった?
全国で毎年100ヶ所以上の中世城郭が発掘されている。ご存知のように中世城郭、特に山城の多くは純軍事施設で、短期間籠城するだけなので、発掘しても茶碗のカケラが多少出土する程度で、ほとんど何も出てこない(大判小判が出てくると思ったら大間違いである。)
そんな中、比較的出土割合が高く、山城とは無縁と思われがちなのが、土錘(ドスイ)、つまり土で作った錘(おもり)である。
富山県内では飯久保城(氷見市)から2点出土している。飯久保城は標高約70mの山城である。中井均氏の研究によれば、全国84城の中世城郭から土錘が出土している。飯久保城の土錘は円筒形をしており、4㎝×2㎝の大きさで、中央に空洞が貫通している。大きさから、魚を捕る投網の錘と推定される。
戦国期の山城といえども毎日合戦しているわけではなく、むしろその逆で、ほとんどが平和な日々を送っていたはずである。そして管理のため少数の城兵が常駐していた。とはいえ、現在社会のように厳しく管理されたマニュアルや管理点検記録の作成義務があるわけでもない。ただひたすらそこにいるだけ、だったのである。
そんな城兵達でも腹は減る。自弁だった城兵達は食糧を調達しなければならない。目的地は飯久保周辺に広がっていた潟。投網を用いて魚を捕り、空腹を満たしたのであろう。つまり城兵達は潟まで出かけ、投網で魚を捕るほどヒマだったのである。山城からよく出土する碁石も、普段の城兵達がヒマだったことを物語っている。
殺伐とした戦国期において、ボロ舟に乗って魚とりに勤しむ、なんと長閑な風景ではないか。子供のようにはしゃぐ城兵の笑顔すら浮かんでくる。ホッと一息つける一幕である。
ちなみに飯久保城の土錘は、貴重品として扱われていたようで、本丸から出土している。城兵達にとって投網は、常駐における必要不可欠のアイテムだったのである。
(桂書房HPブログ 2022.2.15の記事より転載)
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