名取に「私がオバさんになっても」を歌ってほしい話
この記事は、森高千里の名曲「私がオバさんになっても」を名取さなさんに歌ってほしいという旨を書き記した怪文書です。
アンチ・アイドル視としての一曲
まず重要な前提として、森高千里はアイドルではない。女優・歌手としてデビューし、活動当初から多くの曲で自ら作詞を手掛けている、いわばシンガーソングライターだ。しかし、1980年代末というアイドルの時代の残照の中、若々しくルックスも良かった彼女は必然的にアイドル的人気が高まってもいた。
この自身に対するアイドル視への一種のアンチテーゼとして作られたのが「私がオバさんになっても」である、と言われている。あなたたちが私を好きなのは私が若いからだけ(=アイドル視しているだけ)でしょ、アイドルとして見られるような若さがなくなっても本当に好きなままでいてくれるの、そういうメタ的なメッセージを投げかけてみせた歌なのだ。
名取に「私がオバさんになっても」を歌ってほしい
せんせえがたはそろそろ筆者がなぜ「名取に『私がオバさんになっても』を歌ってほしい」と言い出したのか、分かってくれつつあるかもしれない。端的に名取も同じだからだ。名取はVtuberとしての配信活動のみならず、作詞を含めた歌の活動、自身のグッズに加え他コンテンツへの提供もあるイラスト制作、様々なコラボ企画にラジオにイベントと、多岐にわたって活動しており、いうなればマルチクリエイター、マルチタレントといった存在だ。一方で、事実として名取はあまりにかわいすぎ、歌って踊る姿を見てアイドルだという声が上がるのも当然だと思う。しかしそれに対して名取はたびたび「名取はアイドルじゃない」と言っているし、上記の通り筆者もそうだと思う。そういう構造がある中で、「私がオバさんになっても」という歌は名取にぴったりだと感じているのだ。せんせえがたが名取を好きなのは名取がかわいいからだけではない、そう再確認させてほしいのかもしれない。
名取がオバさんになっても…?
ただ、せっかくなのでもう一歩踏み込んで「その後」のことを考えてみたい。
23歳で「私がオバさんになっても」を歌った森高千里は、30年以上経った今でも“ミニスカート”の似合うステージ衣装でこの歌を歌っている。確かに若くはないが、困ったことに(?)歌詞に歌われていたような「オバさん」になる気配も微塵も無い。
ここで考えたいのは「かわいい」という概念だ。「かわいい」というのは非常に多義的な言葉で、それが本質的に何を指し示すかは多様だ。若く溌溂とした女の子に対する「かわいい」もあるが、例えば愛嬌というような年齢と相関しない「かわいい」もあるのではないか。
筆者の個人的な経験にはなるが、高校時代の先生にそういう人がいたことが思い出される。その先生は学校の中で“マドンナ”とされていた(と思う)。歳は50代くらいで、いわゆる美魔女という感じでもなかったが、言動にどこか愛嬌というかかわいらしさがあり、生徒たちから「かわいい」と認識されていた。
もう少し知られているところでは、声優の井上喜久子が挙げられるかもしれない。17歳教の始祖であり、今でも高校制服を着たりとお茶目な姿を見せているが、彼女もまた若さとは別の、愛嬌の文脈での「かわいい」を人々から認識されている気がする。
――名取がオバさんになっても、そんな感じになるんじゃないかという予感がしている。名取も17歳教みたいな状態にあるわけだが、そうであってもそうでなくても30年とか経っても、名取の名取らしい言動や人となりには、若いという「かわいい」とは別の「かわいい」があるのではないか。そうだとしたら、名取はオバさんになっても「かわいい」ままなのではないか?(こんなキモ・オタクにかわいいかわいい言われても嬉しくないかもしれないが)
答えは30年後になってみないと分からない。名取がオバさんになったらおれたちはオジさんだ。そのとき、変わらず名取をかわいいと言いながら(もちろんかわいいだけでない多面的な魅力を)応援できていたら、それはとても幸せなことだと思う。