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金地院崇伝の熱海湯治

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年10月25日・27日記

後世の歴史家によって「黒衣の宰相」とあだ名された金地院以心崇伝。その崇伝は晩年、二度にわたって静岡県の熱海温泉へ湯治に赴いています。一度目は、寛永8年(1631)の2月15日より3月3日まで。二度目は、翌寛永9年の11月7日から25日までです。江戸と熱海の往復で、それぞれ途中2泊していますので、どちらも実質2週間ほどの湯治であったことがわかります。 中世以来、湯治で効能を期待するのであれば、2週間-7日を1単位として二廻りとよばれていました-から3週間(三廻り)は必要と考えられていましたので、期間としてはこれに従っての湯治だったと言えます。

江戸時代の人々は、現代とは異なり移動する(旅行する)にはそのための手続きが必要でした。遠方の湯治場や寺社参詣に赴く際、庶民は菩提寺や名主から往来手形を発行してもらわなければなりませんでした。武士も上役や担当奉行の、崇伝のような幕府要人の場合は年寄(老中)の許可が必要だったのです。ですから、そうそう現代人のように気軽に、温泉旅行が出来る環境ではありませんでした。

それでも、寛永期になると世情が安定したこともあり、庶民は勿論、諸大名もしばしば湯治に出かけるようになってきます。『本光国師日記』(以心崇伝の日記)によると、自国領内に所在する温泉地以外では、西国の大名の場合、目的地はほとんどが兵庫県神戸市の有馬温泉なのですが、参勤交代で在府中の諸侯は、熱海や神奈川県の箱根湯本温泉・底倉温泉、中には群馬県の草津温泉や伊香保温泉まで出かける大名もいました。何度か熱海温泉に湯治した九州の大名、久留米藩主有馬頼徸は、宝暦8年(1758)に大湯前の湯前神社に石燈籠(熱海市指定文化財)を、安永9年(1780)の湯治では、同社に石造鳥居(同)を寄進しています。

さて崇伝の場合、寛永8年の湯治では年寄土井利勝に湯治願を提出し、その許しを待っての出発となりました。許可が出たのは2月10日のことです。同15日に江戸を発駕。途中2泊して、17日に熱海へ到着しました。

熱海で湯治を始めた崇伝は、日々の俗事からは開放されるはずでした。日がな一日温泉を楽しみ、しっかり静養しようと崇伝は思っていたのではないかと推察されます。ところが、残念なことにそうは問屋が卸してくれませんでした。湯治に出向いていることを知らない諸大名や方々の寺院等から、幕府や寺社に関係する様々な問合せや要望が留守中の金地院(江戸の金地院は東京タワーの直下に今もあります)に届けられ、それが熱海まで転送されてくるからです。『本光国師日記』によると、その量は半端なものではなかったようなので、湯治を終えて江戸に戻ってから、ではとても処理しきれなくなると思ったようです。結局、湯治中でも働かざるをえなくなってしまいました。

また当時は、「湯見舞」(湯治見舞)という習慣がありました。これは庶民層でも行われていた風習なのですが、知人が湯治に赴くと、行き先に見舞いの手紙や使者を遣わし、日用品や菓子などを差し入れるというものです。崇伝にも、『本光国師日記』によれば連日大名家などから大量の見舞品が届けられており、浴衣や蒲団、菓子、味噌醤油、こんにゃく、うどんや素麺などの麺類、そのほか多種多様な日用品や食料品が贈られました。それに対し崇伝は一々礼状を認め、時には使者と面会して労をねぎらっています。それだけでも、大きな心労となったはずです。

このように崇伝の場合は、「湯治」中であってもこのような日々を送らざるを得ませんでした。静養になったのかどうか、それは本人のみぞ知るところですが、それでも温泉には好きな時に入れたでしょうし、日常とは異なる風景の中で過ごす転地効果は、それなりにあったと考えたいところです。 

さて金地院崇伝は、翌年の寛永9年(1632)にも湯治のため熱海を訪れています。この年の11月3日に、幕府年寄(老中)の酒井讃岐守忠勝と土井大炊頭利勝に、内々で熱海湯治の許可を願い出ました。「小用詰」、小便が出なくなってしまったので、伊豆熱海温泉で湯治療養したいとその理由を認めています。この年は、崇伝にとっても極めて多忙な一年でしたので、その疲れもあったのではないでしょうか。

多忙な一年は、正月24日夜の大御所徳川秀忠死去に始まりました。金地院崇伝は大僧正天海や幕閣重臣と共に、葬儀(密葬)の差配や法号(戒名)問題で忙殺され、その上個別に大名から問い合わせのある増上寺台徳院廟へ奉納する石(金)燈籠や手洗水鉢(手水鉢)の銘文等について、思案しなければなりませんでした。4月には、将軍徳川家光の日光社参にも同行しています。

また、8月4日から始まった台徳院廟御堂供養では、諸大名のみならず京都からも大勢の公家衆が参列しましたので、崇伝の役割はとても重要でした。さらに9月になると、五山・十刹など寺院の本末関係や寺領高を調べるよう命じられ、息を抜く暇さえないような状態だったのです。将軍家光は、父秀忠が疎んじていた崇伝を家康同様重用し、しばしば江戸城に召して諸事諮問していますので、その役割も果たす必要がありました。

このように多忙な一年を過ごすなかで、崇伝は体調を崩し、小便が出なくなるような病を患ってしまったのでしょう。心配した家光は、申し出のあった翌4日に酒井忠勝と土井利勝より奉書を出させ、熱海湯治を許可しました。

崇伝は、奉書を受け取ったその日に、熱海に向けて出発しました。ただ、発足の日については、『本光国師日記』に混乱がみられます。今は、7日条に「熱海へ御湯治、日柄悪敷候へ共、四日ニ首途候故如此」とあることから、4日に江戸を出て7日に着いたと理解しました。ところが、7日の晩には戸塚(神奈川県横浜市)で手紙を認めていて、9日条に「午時熱海へ御著」とありますので、これに従えば7日に発って9日に熱海へ着いたことになります。

それはともあれ、崇伝はふたたび熱海へ湯治にやって来ました。今回は、前年の湯治とは少し様子が異なり、公務が転送されてくることはほとんどありませんでした。たんなる静養ではなく、病気療養(「小用詰」)のための湯治ということで、周囲が気遣ったのかもしれません。

ですが、その分「湯治見舞(湯見舞)」は、前回よりもさらに増えたようです。前年には記録されていない大名等からも、連日のごとく食糧や嗜好品・日用品などが届きました。その一つ一つに、礼状を認めなければならないのは前年と同じですので、大きな心労になったのではないかと推測されます。16日には、中間(使用人)12人に届けられた品物を江戸に運ばせていますが、これはとても手元に置いておけないほどの量だったからでしょう。中間に運ばせたのは、「小袖弐つ入壱箱」・「小袖弐つ入」・「御ゆかた五つ入一箱」・「御ゆかた五つ入一箱」・「御ゆかた拾入一箱」・「御ゆかた五つ入一箱」・「蝋燭百挺入五十目掛一箱」・「諸白大樽四つ」・「吉野葛弐箱」・「わらひの粉壱箱」・「あんにん一箱」・「枝柿弐百入一箱」・「醒井餅壱箱」です。浴衣など湯治中に必要な品が多いようですが、吉野葛や醒井餅など、地方の特産品もあったことがわかります。

11月23日、崇伝は二廻り(2週間)の湯治を終えることになりました。この日熱海を出立して小田原(神奈川県小田原市)に泊まり、翌日は戸塚に宿って25日に江戸金地院に帰りました。療養の成果につきましては『本光国師日記』には記されていませんが、どうやらあまり好ましい改善はみられなかったようです。12月1日は、江戸城へ赴く日だったのですが、病で登城できず、心配した大名たちが城からの帰り金地院を訪れ見舞っています。それでも6日には登城していますので、公務に差し支えるほどのことではなく、その後も家康が発令した諸宗諸寺への法度について家光から諮問を受けるなど、それまで通り公務(役務)を果たしていました。

ところが、年が明けた寛永10年正月10日、突然具合が悪くなり、病床に臥してしまったのです。即日、土井利勝が見舞に訪れ、翌11日には家光の上使(使者)として土井と酒井忠勝・板倉重宗が金地院へ赴き、家光の「養生肝要」という言葉を伝えています。家光は、さらに半井驢庵・曲直瀬道三など当代一流の医師数名に、治療にあたるよう命じました。将軍家光は、自らが親政を行うに際し、寺社や朝廷問題に対する崇伝の役割に、強い期待を抱いていたのです。

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