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磐嶺浴湯信士の墓

もう随分前のことです。2006年7月の末、会津磐梯山を間近に望む福島県耶麻郡磐梯町の能満寺という真言宗のお寺を訪ねました。磐梯町発行の『磐梯町史』を眺めていたところ、この能満寺にあるという一基の墓石に関する記述に目がとまり、ぜひ実物を見たいと思ったからです。その墓石は、「磐梯の湯」(磐梯温泉)で湯治中に客死した人を弔うために建てられたと書かれていました。

この『磐梯町史』の記述に目がとまったのは、その頃、温泉場に於ける“湯治客の死”という問題に関心を持っていたからだと思います(その関心に基づき『温泉をよむ』でも草津温泉の無縁堂、現在は町営滝尻原墓苑に移されている墓石群を紹介しました)。そこで早速、能満寺を訪ねることに。ただ詳しい場所が町史ではわからないので、磐梯町教育委員会の文化財担当者に連絡したところ、寺の墓地内ではあるもののわかりにくい場所だからということで、当日わざわざ来て案内して下さいました。

その墓石の文字は磨滅や破損で一部判読できない箇所もあるのですが、「生国岩城領小名〇(浜ヵ)○屋/村之産也、名音治郎、浴磐/梯之湯、文久三年亥七月〇/〇日病没」と刻まれていました(『磐梯町史』では「小名〇(浜ヵ)〇屋村」を「小名浜天屋村」と判読していますが、平凡社の日本歴史地名体系に拠るかぎり「天屋村」は耶麻郡(会津坂下町)にはあるものの小名浜(いわき市)附近に該当する村名は確認できません。

おそらく現在のいわき市域の住人で音治郎という人が、磐梯の湯で湯治をしていたところ病が重くなり、文久3年(1863)7月に亡くなったことから、この墓石が建てられたということなのでしょう。お墓を立てたのは、墓石左側面に「施主大寺村/小野栄吉/建之」とあるので名前は知られるのですが、この人と音治郎がいかなる関係にあったのかはまだ調べていません。ちなみに、能満寺は大寺村にあります。

『磐梯町史』を読んでいてこの墓石に注目したのには、もう一つ理由がありました。書かれていた音治郎の戒名です。「磐嶺浴湯信士」。目を疑いました。おそらく能満寺の僧が授与した戒名なのでしょうが、音治郎さんには申し訳ないと思いつつも大笑いしてしまいました(墓に詣でた時に謝罪してきました)。磐梯の温泉場で亡くなったから「磐嶺浴湯信士」ではそのまんますぎます。もう少し戒名らしい戒名を授けてあげればよかったのにと、強く思ったことを記憶しています。

能満寺墓地より磐梯山を望む

ちなみに山の湯治場「磐梯の湯」は、明治21年(1888)7月15日に発生した磐梯山の水蒸気爆発によって壊滅的な被害を受け、多くの湯治客が亡くなりました。

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