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「一日湯治」と「合せ湯」

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年7月1日記

江戸時代の湯治場において行われていた主な入浴法については、日本温泉文化研究会著『温泉をよむ』でもお知らせしたのですが、実は最初に準備した原稿には、それに加えて温泉場間の関係性について若干の解説を加えていました。群馬県草津町の草津温泉と、中之条町の沢渡温泉の関係、などについてです。強酸性泉の草津温泉湯治で刺激に曝された浴客の中には、帰途荒れた肌を整えるために硫酸塩泉(石膏泉)の沢渡温泉に赴く人がおり、そのことから沢渡は草津の「仕上げの湯」「直しの湯」と呼ばれていたことが知られています(そう諸書で説かれています)。

このような特定の温泉場と温泉場の関係性は、なにも草津温泉と沢渡温泉に限ったものではなく、他にも同様あるいは類似する事例がいくつかあり、江戸時代における「湯治」を考える上でとても重要な事象の一つと捉える必要がありそうです。そこで今回は、最初に書き上げた原稿から削除した分の中で論じていた「一日湯治」と「合せ湯」について、ごく簡単にご紹介しておきます。

江戸時代のこと、秋田県湯沢市の川原毛温泉で湯治する浴客が、日帰りで同市の泥湯温泉に赴き入湯することを、「一日湯治」と呼んでいました。菅江真澄は、文政6年(1814)編の『雪の出羽路 雄勝郡一』(「河原毛温泉」項)で、「笹森山の麓より泥湯に出る路あり、また山越ならでも麓をめぐる道あり。浴人、此湯より泥湯に一日湯治といふ事して川くまをめぐるみちある也」と述べ、「一日湯治」のことを伝えています。これによれば、川原毛温泉から泥湯まで通う湯道もあったようです。現在舗装されている道路を通れば、両温泉間は成人の足で30分程度の道のりでしょうか。「一日湯治」のような風習が発生する背景の第一は、まずはこのような距離と移動の容易性なのでしょう。

物見遊山が目的の温泉巡り、いわゆる“はしご湯”は、江戸時代においても観光地化した温泉地、例えば箱根七湯などでは珍しくありませんでした。ですが遊山ではなく「湯治」(=病を治す)となると、そこで行われる浴客の動きには療養上一定の意味あるいは目的があったことになります。より温泉の効能を得ようと、編み出された湯治法の一つだったに違いありません。他にも、例えば新潟県の温泉では「合せ湯」と言う「湯治場間の交互浴」の習慣がかつて見られました。文政13年(1830)に小村英菴が著した『後越薬泉』によると、大湯温泉(魚沼市 旧:湯之谷村)の項に「此(大湯)ヨリ一脈ノ澗水ヲ隔テ、其間僅ニ八丁ニシテ、栃尾俣ニ至ル、此両泉ヲ替ル替ル浴スルヲ合セ湯ト呼フ」、栃尾又温泉(同)項には「大湯ニ比レハ寒キコト格別ナリ、大湯ヨリ合セ湯ニ来ル者、僅ニ五六人ヲ見タリ」とあり、この両温泉をかわるがわる入浴する風習を「合せ湯」と称していたことが判ります。

「一日湯治」や「合せ湯」は、温泉史及び温泉医学史を研究する上で大変興味深い「浴法」であり、前述のごとく今後深めていかなければならないテーマの一つであることは間違いないでしょう。なお付け加えておくと、小村英菴は同じ湯治場内にある「冷湯」(ひえのゆ)と「熱湯」(ねつのゆ)を交互に入浴することも、「合せ湯」と呼んでいたと記録しています。

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