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梅田(うめだ)。1990年頃の思い出。

この週末(2024年6月並み1日〜2日)、というか土日は大阪に来ていた。

大阪の サウナ&スパ カプセルホテル 大東洋 と
サウナ&カプセル アムザ からお招きいただいたのだ。
イベントの当日、お昼に新大阪に着いて、地下鉄で 梅田(うめだ)駅 に到着。

お腹が空いたな、と思いつつぷらぷら歩いて昔 大阪に住んでいた頃たまに来ていた
大東洋の近くの立ち食いそばで小腹を満たす。

(スタミナそば。560円)

食べて歩く。

ボクはこの大阪駅周辺のことを
「梅田(うめだ)」と言う。
ボクだけじゃない、今でもそうだと思うけど大阪に住んでる人はこの辺一帯を梅田(うめだ)と呼ぶと思う。

 (地下鉄御堂筋線 梅田(うめだ)駅)


若い頃は なんば と並んでよくこの辺りに遊びに来たけど、
まあシュートボクシングをやっていた時代はジムが天神橋筋六丁目駅の周辺にあったから更によく来た。
(25才〜27才ぐらいの頃だな)
東通商店街でよく飲んだ。

好きな街だ。

でもここを歩くのは少し憂鬱でもある。


20才ぐらいの頃、母親の成子に
「ちょっとついてきてほしい所があんねん」
「判子持ってきて!」
と言われて どこいくん?と思いながらついて行った、2人で自転車をJR寺田町駅に置いて環状線に乗って どこまでいくんやろ?と思いながら大阪駅(うめだ)に。

そっからどんどん歩いてく、
どの辺だったかな?知ってる辺だ、
当時1ヶ月にいっぺんぐらいの頻度で来ていたガレージキットやプラモデルを作る時の工具や特殊なパテや塗料を買いに来ていた店「ホビット」の近くだ。
でも何だかちょっと横に入った薄暗い雰囲気の雑居ビルに入って行ってたいがい劣化したようなエレベーターのスイッチを押しても母親の成子はこちらを向かなかった。

ポチンと目的の階に着いたのか、ドアが開いた目の前に薄暗くボンヤリと「サラリーローン」蛍光灯の灯りの看板があった。


家には借金があった、
それのせいで母親の成子は真夜中に一人で家の近所の田島公園に行って嗚咽しながら泣いている事をボクは知っていた。



「ひろふみ、何にも言わんとここ入って
お金貸してくださいって言うて」
(ボクの本名は井上ひろふみ(富文)という)

「お願い、言うて」

と母親の成子はボクににっこりと笑って言う。


「な、これでみんな助かんねん」

「後はお父さんがなんとかしてくれはる」

「な!いこ!」

「これでなんとかなんねん!」


そうにこにこ笑って言う。



ボクは言われるまま
「こんなもんかな…」と思いながら
母親とサラ金(サラリーローン)に入ってお金を借りた。

ボクのその時の収入の上限額 30万 渡された時に手が震えた。
「30万や…」
ほんとに当日行って審査も適当にこれだけで即貸すんだと思った。
そのまま母親が さっ と薄い札束を取ると
「ひろふみ、ありがとう。これでみんな助かる!」と笑っていた。

「大丈夫やって!お父さんがいつか何とかしてくれはんねん」

母親はいい加減な事を言っているわけじゃない、
本当に父親の二郎を信じていたんだ。
いつかなんとかしてくれるって信じていたんだ。


「だからひろふみも信じて」
 「これでええねん」


ボクも少しだけ信じていた
甘えていたんだ、
オヤジがなんとかしてくれんのかなあ…って。
仕事はまあ、バブルの時代だったし、…とまらずに働いてるから大丈夫かなあ、って。



特に母親に何か言いたいわけじゃない、
ボクは母親が好きだ。
何とも思ってない。



梅田 に来たらいつも思い出して少しだけ憂鬱になるだけだ。

noteに書くのも単にアウトプットしたいだけだ。

ボクは誰にも何も思っていないし、
誰かに何かを言いたいわけじゃない。


オレは今日も元気だ。


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