ここまでの意図
この文章は、東京芸術大学のアート×福祉DOORプロジェクトの中の授業の一環でボク個人が作成した作品の一部です。これ単体ではよく分からないと思いますが、下記は事前に別のものがあり、そこから繋がっています。
このnoteだけ読んだ方にはなんのこっちゃか混乱させてしまうかと思います。申し訳ありません。
改めて、まずは本当に申し訳ありません。
ただ、今あなたが感じたことを日々感じているかもしれない人がいることを伝えたかったのです。
虐待した親と聞いて、その親にどんな印象を抱きますか?
鬼だ、ひどい、子供がかわいそう、そんな印象を持つ人は少なくないと思います。僕自身もそうでした。
でも我々はその親と知り合いでしょうか?
深く話したことはあるのでしょうか?
ニュースで見ただけではないでしょうか?
ともすると先程の私の料理のコメントみたいに、何も知らないまま決めつけてはいませんか?
事実を知ると虐待は鬼、ひどいとは、もしかすると言い切れないかもしれません。最初にも書きましたが、まず虐待をしたくてしている親はいないということ。
ある親は、自分も夫からずっと暴力を受けてきました。
それを相談できる人は誰も周りにいなく、ずっと一人で耐えてきました。
ある親は、自分も子供の時に虐待を受けて育ってきました。
親の手のぬくもり、暖かいまなざし、優しい声を注がれずに育ちました。
そんな人が親になる。
そもそも自分の事も守れていないのです。
今にでも心の糸がプツンと切れてしまう状態。
そもそも人の愛情を知らないのです。
何が愛情か知らないので、自分が愛情を注ぐ方法も知りません。
何が言いたいかというと、決して虐待を肯定するのではなく、虐待をしてしまう親も被害者であるということです。
そこを知らずに、親を見てしまうと、私のコメントのようにただただ相手を責めるだけの結果を作りかねないということです。
その虐待と直接関係ない我々の声が、世論となり社会の声となり、不要な不幸を生みかねない。
それでは虐待の連鎖は消えない気がします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?