いつ死ぬかも分からぬ日を僕らは生きているんだ。という話。

10m先に物陰が見えた。近づいてみると大人の男だとわかった。周りに4人大人がいる。どうやらその様子を伺っているようだ。最初は酔っ払いを開放しているのかと思った。
違う。口からは大量の血反吐が出ていて、それが地面に流れ出ている。真っ赤に染め上げている。周りの大人は二人は近くのビルの警備員。AEDの準備をしていた。もう二人はおそらくカップルで、第一目撃者だろうか。電話をしていた。
この光景を見れば誰だって一瞬でわかる。ただごとではない。そうこうすると、警官が向こうから走りやってくる。僕らはその警官とすれ違うようにその現場を逃げるように離れていった。静かな夜がものの5分ほどで一変した。

私がその現場を目にして最初の感覚は衝撃。次に気持ち悪さ、最後に恐怖だ。
その後、ずっと恐怖と気持ち悪さがループする。幸いにも友人といたため良かったが。一人でその光景を見た瞬間を想像すると、足が震える。胃が痛む。

そうして、今、改めて冷静になって思うこと。
不謹慎を承知の上で思うこと。それはなかなかできない経験をしたということだ。ある意味で、あくまでもある意味で、本来の意味が間違いなくあって、そのうえで、あえて言わせていただくなら。というくらい下手に出た、ある意味で、いい経験をした。


日本人の誰しもが思うことで、日本は安全安心な国であるということ。危険な目にはめったに合わない。夜中一人で出歩いていて無事言えまで帰れる。テロもなければ、内戦もない。飢餓もない。流行病もない。とても住みやすい国。
そんな国に住みながら、今日私は、「人はいつ死ぬかわからない。」という当たり前であるがなかなか実感できないことを実感した。
だから、いい経験だ。そう思う。むしろそう思わなければいけない。ただ単に、恐怖経験で終わらせてはいけない。気持ち悪い経験で終わらせてはいけない。私は今日、一人に命の瀬戸際に居合わせたのだ。そんな軽い感情だけで片付けてはいけない。むしろいい経験と思い、自分の人生の糧にする。勝手にする。それが同じ人間として、その場に居合わせたもとしての、責任だと思う。

私達は、確かにいま生きているという事実と、いつ死ぬかも分からない可能性がいつもすぐ隣にあるという事実。そういう真逆とも言える事実を2つ抱えながら毎日を過ごしている。と同時に私達は、日々、「君は今日という1日をどう生きる?」と何とも言えない誰かに常に問われている。そんな感覚を持った。
この感覚は、その場の光景を見た時にスッと感じた感覚ではない。むしろ冷静になった後、いつ死ぬかも分からないと考え始めて、じわじわと生まれた感覚だ。
要は、人は普段から、「いつ死ぬか分からないから今を懸命に生きよう。」とは思えないのだ。でも、一方で思おうとすれば思える。ということも今回で知れた。
それも含め、君はどう生きる?と問われている気がした。懸命に生きようと思って生きるか、思わず生きるか。

正直思って生きるのは大変だ。相当の気力がいる。でも思わずに生きていれば、いつかその日が、不幸にもその瞬間が来てしまった時に、私のなかに微塵の後悔もなく死ねるだろうか。これもまたそうで、大変な毎日を過ごすか、最後に後悔しながら死ぬか。究極はその選択に迫られているのだ。何とも言えない誰かに。

果たして私はどうだろう。毎日を懸命に生きようと思って生きたい。そんな生き方をしたい。でも本当にできるか自信がない。怠ける。でも、それでも私は、懸命に生きようと思う。生きる努力を重ねていこうと思う。

今日あの場でに居合わせた者として、そう生きるきっかけを私は与えられたのだと思う。誰しもができるわけではない生き方を、お前はしろと、今日の経験を通して、何でもない誰かに命じられたのだ。そういう機会だったのだ。

だから、私は懸命に生きる。そう決めた。その努力を怠らない。
それが私に与えられた使命である。

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