「血を入れ替えるということ」
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年は医療事故に遭い、年末年始をカテーテルが入った状態で過ごさなければならない可能性があったことを考えると、なんと平穏で素晴らしい新年でしょう!ここには静けさがあります。新年はゆっくり「神様のいる竹林」ランニングしてきました。
さて、昨年は全国12カ所でトークLIVEツアーをやったり、152店舗の書店を回ったり、TVやラジオ、WEBメディアに出演したりと自著のことばかりをご報告していましたが、もちろん仕事もちゃんとやっていました。印象的だったのは、たった一年そこらで「やっていた仕事がほぼ新しいものに入れ替わった」ことです。
それは「新しい仕事がやってきた」ことと同時に「それまでやっていた仕事が去っていった」ことを意味します。
そこには「大きな喜び」があり、「屈辱に似た悔しさ」がありました。でも考えてみたら得た仕事にはその裏に知らない誰かの涙があり、失った仕事にはきっと誰かの笑顔があるわけです。そういった意味では長い目でみたら差し引きゼロ、イーブンなのかもしれません。
生きているだけで誰かを勇気づけたり、無自覚に傷つけたりするのが人間ですから。
「血の入れ替え」という言葉が、年末だったり、期末だったりといった区切りの時期になるとTVや新聞誌面を踊ります。簡単に言えば「今あるものや古いものを、新しいものに入れ替えよう」、という意味で使われます。プロスポーツならベテランを切って若手を入れる。会社員なら、前時代的な価値観の社員をリストラして多様な人材を採用する、あらゆる組織論の中で「血の入れ替え」は叫ばれます。
でも、本当に「何かを何かに物理的に入れ替える」ことだけが「血の入れ替え」なのでしょうか?誰かがいなくなることが、誰かの活躍の場につながることは自明の理だとしても、終わりなき淘汰の先には何があるのだろうか?と私は考えます。
「テセウスの船」という、ドラマのタイトルにもなった有名な思考実験があります。「テセウスの船」はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれていて、一つの船のパーツをどんどん入れ替えていって最後は元の部品が一つもない状態にします。「その船は果たして、オリジナルのテセウスの船なのか?」という命題ですね。さらに入れ替えて外されたパーツを再び組み立てるともう一つ同じ船ができるわけですが、「どちらが本物のテセウスの船なのか?」という問いも同時に存在するわけです。
要は、ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という同一性の問題をさします。
物体やパーツが対象だと話はわかりやすいですが、これを人間に置き換えるとひじょうにややこしくなります。「その人をその人自身と証明するには何が必要なのか?」という大命題があり、「人間を構成している要素は体細胞だけではない、それに付随する他者との関係や社会的要素も不可分なのだ」という仮説で考えると、我々においては仕事や人間関係がそっくり入れ替わる事は多々起こり得る事であり、同時にアイデンティティの獲得と喪失につながる出来事なのだと思います。だから、私たちは本能的に変化を恐れ、現状維持を選択しがちです。政治や社会への変革に尻込みし、ゆるやかな減退の中にいても気づかないフリをします。
『現状維持は後退である』―W ・ディズニーの言葉が胸に刺さります。
では「血の入れ替え」に対してどう向き合うか?ですが、私が決めたのは、「自分の意思で、自分の血を入れ替える」です。
「誰かと誰かを入れ替える」手前で、
「誰かの心や意志を新しく入れ替える」ことをみんな簡単に諦めすぎなんじゃないかと思うのです。
「人の本質は変わらない」は真理ですが、「人は誰かの役にたちたい、社会的な生き物である」もまた真理なのですから。
組織や人間関係のなかで自分が意思決定できることはそんなに多くはありません。時には理不尽に「大人の事情」で仕事は奪われ、積み上げてきたものは崩されてしまいます。唐突に人間関係が破綻し、誰かが去っていくこともあるでしょう。事実を事実として受け止め、しかしそれをチャンスと思い、ポッカリ穴があき、血が流れたあとにこそ、新しい血を注ぎ込めるチャンスだと考えて行動していきます。
『事実は、真実の敵なり』―「ラマンチャの男」に出てくる有名なセリフですが、今を生きる自分にとっての真実を探すこと。それをやめないこと。
座して誰かの裁定の中で生きるより、
走ることをやめずに自分で自分を更新して行けたらと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
めちゃくちゃ楽しい「ものづくり」をしましょう!
2023年1月1日
神様のいる竹林を走りながら。
勝浦雅彦