練習曲目
Prelude op. 28, No.17 As-Dur
Etude op. 25. No. 7 Cis-moll
少し間が空きましたが、リケの1839年11月6‐8日の手紙の続きです。
彼女の尊敬する芸術家ショパンのレッスンの様子とその真剣さは、前回の手紙からも伝わってきますが、リケはウィーンの叔母たちに、その感動を次のように綴っています。
1.多様なものが同時進行した19世紀
さてこの手紙によると、6日の午後1時半のレッスンがキャセルとなり、そのかわりに7日に変更になった、と書かれています。
道路が馬などの糞に満ちているので、乗合馬車でマドレーヌ教会まで行き、そこから歩いたとの記述がありますが、公共空間の使い方は中世そのままだったみたいですね。汚水を窓からバケツで街路に捨てる挿絵とか、きっとどこかで御覧になったでしょう。
ショパンのいたパリはまだ中世。私たちが知るパリは、シャンゼリゼ通りを軸として1853年以降に大改造されたあとの姿なのです。
一口に19世紀と言いますが、1800年代の10年は一昔どころか、二昔も三昔にも相当するほど、変化の激しいものでした。たとえば18世紀の末には、鉄を構造として使う技術が開発されて、それを応用した図書館(口絵写真)がパリに計画され、1854年に工事が始まりました。
そういう鋳物の技術が発展して細部の政策が可能になり、それはピアノの弦を張るフレームに使われることになったのですが、それによってピアノという楽器は別のものとなりました。木の枠では弦を張る強さに限界があったのですが、それが鉄枠となって未知の可能性が開かれたのです。
ピアニストたちがその好機を逃すわけはありません。
彼らは新しい可能性を基に、新しい効果が盛り込まれた作品を作曲し、それを試し弾きして楽器に注文をつけ、職人はそれを可能にすべくメカを開発する。そういう持ちつ持たれつの関係で、ピアノとその楽曲は大きく変化しましたのでした。
2.模範レッスンの生徒に抜擢(?)されたリケ
さてショパンは、リケのレッスンを次の日に変えたのですが、行ってみると当てが外れました。
ショパンはピアノのレッスンで生計を立てていたわけですが、体調が悪かったり急に社交的な必要が生じたりで、よく変更があったのかもしれません。
にもかかわらず、レッスンの遣り繰りが付かないことがあった、ということでしょう。
そこでショパンは、リケのレッスンの様子をレッスンとして見せることにした。辞めてもらっても別に困らないわけですから。
それに対してリケは、構わないという姿勢を示しました。
それは彼女が、ショパンの周辺の状況に理解を示したこと、そしてレッスン自体の価値が変わるものではない、と確信していたからでしょう。
あるいは、模範レッスンの生徒に抜擢されたことを誇りに思うという、ポジティブ・シンキングだったのかもしれません。
3.それに適うことを知っていたショパン
(註1)これに関しては著者の指摘があります。
「ここにいうプレリュードとはショパンが廃棄したそれで、当時は作品番号十七が与えられていたプレリュードのこと。これは後に組み変えられて、プレリュード作品28となり、リケが弾いたのはその第17番変イ長調だった。(Preludes op. 28, No.17 As-Dur) 」
ということですが、左手がスペイン風云々の曲についての指摘はなく、門外漢の当方には見当がつきません。思い当たる節のある方にでも、教えて頂ければ幸いです。
4.模範レッスン生から愛弟子に格上げとなったリケ
この曲は今まで聴いたことがなく、リケの報告を読んでYouTubeに楽譜付きのホロビッツの演奏があるのを見つけたのですが、今さらながら、ショパンの多様さに驚かされました。
と同時に、この曲の自由度の高さゆえの解釈の困難さ。
敢えてそれを選んだリケもリケですが、ショパンの評も他の令嬢たちへのお世辞とは違ったレベルで、大げさに言えば「魂が出会った」みたいな、芸術的満足感をお互いに感じ合ったということでしょうか。
5.リケのプロとしての観察眼
このリケの報告を、一女性ファンのアイドル崇拝に過ぎない、で済ましてしまうことも可能でしょう。
しかしリケは、これまでのショパンの発言から窺えるように優れたテクニックと感受性を有し、その観察は、プロのピアニストとしての発見に満ちているように見受けられます。
レッスンを通じてショパンに触れるというのは、演奏会で生を聴いて感動するのとは大きく異なる次元の話。プロの見識を持つリケは、彼の一挙一動が内包するディテールに気付き、それとショパンの音楽との関連を、分析してくれたのだとも言えるでしょう。
彼女はショパンの演奏の秘密に気付き、それを仕組みとして掴みやすくエレメントに解きほぐして、自分の糧としたのでした。
ピアノの素人である筆者に興味深かったのは、変な指使いだけどそれだからこそ曲想が一段と生えて聴こえる、という意味の指摘。
それを筆者の関わる建設の分野でいえば、たとえば大工さんがカンナをかけるのにも似ています。やり方は色々と異なるけれど、職人技が目指すのは最高の結果を生み出すことであり、方法は人それぞれで良いということ。これは、工作器具や大規模な杭打ち機などの操作にも同じく必要で、いわゆる「勘 (かん)」というやつです。
専門筋によると、ショパンのピアノ作品は、彼の手の解剖学的な可能性(指使い)と、表現力を増しつつあるピアノという楽器の可能性とが、互いに他を刺激しあって生まれたもののようですね。
では、ショパンの奇妙な指使いに気付いたリケは、どうしたのでしょうか。その指使いを真似たのでしょうか。違う手で同じような効果が生み出せるのでしょうか。
筆者は、指使いとは絶対的なものではなく、便宜的に標準的なそれがあり、自分に適した独自の解があって当然だと考えます。
それが、ショパンのそれと大きく異なっていたとしても。
6.リケのレッスン事後録
つまり、リケはそれをしなかったのですが、少々残念ですね。
観察力に優れた彼女の報告は、それ自体がショパンの芸術を知るのに有用な手掛かりを与えてくれますが、それに含まれるプロとしての分析は、専門家の方々にも十分ヒントとなり得ると思うからです。
まあ、まだ百通以上の手紙が残っているのですが…。
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この研究書、この続きは新開拓。読者の方々のニースなども睨み合わせて、また記事にしたいと思います。
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