校長就任から3ヶ月。今の気持ちを正直に綴ってみた件。
皆さん、こんにちは。
新年度も3ヶ月が経過しました。
いつも通り、あっという間でした。
前回のnoteでもお伝えした通り、今年度は専門学校の「校長先生」というポジションに挑戦しています。想像通り、36歳という「若さ」に皆さんが驚かれます。私自身も、おろし立てのスーツくらい着こなせていないような気がしてなりません。笑
また、これまでの「経営者」という立場も兼務しながらですので、それもまた大きな挑戦です。地元の新聞では「二刀流」として大きく取り上げていただきましたが、大谷翔平選手とは比べものにならないくらい非力です。笑
3ヶ月経った心境を、正直に綴ります。
無知の知
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、人類で初めて知恵の探究に「対話」を用いた人物と言われています。プラトンやアリストテレスといった偉大な哲学者たちも、ソクラテスの影響を大きく受けていました。
私自身も、大学生の頃から「教育」に興味を持ち始め心理学などを勉強する中でソクラテスを知りました。今日、私が「対話」を大切にしている原点もソクラテスです。教育現場にどっぷり浸かる時間が増えたことで、今まで以上に対話の重要性を考える機会が増えました。
「先生」という職業は、学生に何かを「教える立場」であるというのが一般的です。しかし、情報化社会が進展したことで学生の方が詳しく知っている領域も当然のように存在するし、ChatGPTのように先生以上に深い知識を持った存在が近くにいるのも当たり前になりつつあります。
このような時代において、「先生」という定義そのものが大きく変わってきていると感じます。現場に近くなればなるほど、その仮説は「確信」へと変わっていきます。そしてそれは、学生との信頼係数とも相関関係にあると私自身は感じています。
一方で、教育現場にはまだまだ、教育現場としての「当たり前」が残っているのも事実です。民間出身の私にとっては、未だに戸惑う部分もたくさんあります。時々、「自分は教育業界に適さないのかも」と思うこともあったりなかったり。
とにかく私は、私が「誰よりも知っているという立場である時間」を少しでも減らして、「対話によって新たな知識や知恵を獲得する時間」を少しでも増やそうと努めています。知的な謙虚さを学生に示すことが、今日の教師の役割でもあると思っています。
見えない意図
「教える」よりも「気付く」にこだわる。多くの教育者が努力を積み重ねている部分ですが、これは本当に難しい。教育の世界でも、インストラクショナルデザインを筆頭に「教育設計」という概念がどんどんと組み込まれ始めています。
経験や勘に頼らない、再現性のある教育。個々の学生の能力に合わせた、複線型の教育体制。言葉にするのは簡単ですが、実際に実践するのは想像を遥かに超えて難しい。ごちゃごちゃと考えるよりも教えてしまった方が早い。そんな選択が頭をよぎることもしばしばあります。
気付いてほしくて設置した伏線も、相手には気付かれない。むしろ伏線の設置が設置者のエゴにする見えてしまう時がある。気付かれなかれば大損する超リスキーな選択。
でも、「気付く力」を育てたいなら辛抱するしかない。ちょっとした外的動機付けを用意することはあっても、それ以上の手厚さは成長の妨げになる。このバランスの難しさに、今は正直、とっても苦しんでいます。本音を言えば諦めたい気持ちの方が上回っているかもしれません。
もっとも、他人を根本から変えるなんてことはできないわけで、その点において過度な期待は最初から持っていないのですが、設計に拘った時ほど、うまくいかなかった時にもショックも大きい。その苦しさを受け止める器を、しっかりと磨いていかなければいけない。それが、私の今の課題です。
自分の時間
偉ぶって「誰かのために」というつもりはないのですが、私自身は人の成長や活躍に「使命感」が必須だと思っているので、一種のヒーローのような時間は、すべての人に必要だと本気で思っています。
しかし、最近になってわかったことがふたつあります。ひとつは、ずっとヒーローでいられる人は存在しないということ。ひとつは、ヒーローになることよりも「なりたい」と思う気持ちの方が大事ということです。
人間にも必ず「メンテナンス」の時間が必要です。どんな時も「誰かのために」動ける人は、必ずどこかでボロが出ます。メンテナンスをしない自動車が必ず故障するのと同じように。
大きなことを成し遂げたいと思っている人ほど、自分の時間を大切にしなければいけない。身体や心は、自分が思っている以上に、一瞬で崩れます。メジャーリーグで大活躍の大谷翔平選手は、メンテナンスの部分においても、やはり超一流です。
そして、能力が備わっていないのにヒーローになることも、場合によっては無茶な選択かもしれません。PRGのゲームで、レベルアップできていないのにボスに挑むようなものです。勝率が全くない戦いに挑むのは、勇者ではなければ賢者でもありません。
どんな時も「なりたい」という気持ちを備えておく。実際にはヒーローになれなくても、「その時自分がその立場だったら」と思考することは、立派なトレーニングになります。その積み重ねこそが、ヒーローへの近道です。
ちなみに、本記事では「ヒーロー」を多用していますが、わかりやすい例であり、あえて抽象的な表現を用いています。ひとりひとりの描いたヒーロー像であれば、そこに定義は不要だと思います。(倫理的な正義はもちろん必要ではある)
明日へ向けて
全体にネガティブな内容に見えがちですが、現実は思ったよりも良い方向に進んでいて、たった3ヶ月ですがいろんな成果も見え始めています。このまま前進していけば、社会に何か大きなインパクトが起こせそう。そんな予感があるのも事実です。
教育の側面ばかりをピックアップしがちですが、経営者を務める私たちの会社も、能登地域の復興支援(小規模事業者の事業デザインやコミュニティデザイン)、富山県内の教育関係のデザインや様々なコミュニティデザインにも携わらせていただき、社会的使命を感じやすい日々の連続です。
だからこそ。もっと自分に目を向ける必要があるなと感じています。業界の中では若い立場なので前線に立つ機会も多くなりますが、その分やはり、戦略を考える時間は削られます。二刀流という特殊な働き方も、健康あってこそ実現できる選択です。
この3ヶ月は、とにかく目の前に必死な時間が多かったので、広く声をかけたり多くの人を気に掛ける余裕は、正直全くありませんでした。その点における申し訳なさがないというのはウソになります。そこにはそれ相応のストレスもあったりします。
慣れない環境に適応しようと頑張る自分を褒めてあげる。そのような時間もきっと必要なんだろうなと思います。今まで以上に。ここはまさに、自分自身の「伸び代」なのかもしれません。
昔から私は、自分の気持ちを「言語」にすることで、自分を客観視していきました。最近はそんな機会も減っていたので、今回はゆっくり向き合えて少し気持ちがラクになった気がします。
このような気持ちの揺れ動きは、大小あれどすべての人がぶち当たっている壁であり、このような経験は「相手を理解しようとする」という観点からも貴重です。感謝、感謝。
選択を正解にするために、
明日も明日を楽しみます。