見出し画像

【電気湯伝記#03】 都市に「住む」(24/02/12)

 こんにちは。とてつもなく寒い日が続いてずっと家にこもっていたのですが、営業後の夜中に電気湯ファミリーで一瞬だけ雪を投げ合った時に「ああ雪合戦しておけばよかったなあ」と後悔しました。引きこもり癖があるとこういう機会を逃してしまうのでやっぱり人生に必要なのは気合いですね。暖かい部屋から雪が舞う屋外へ飛び出る気合い。マジ気合い。
 さて、電気湯伝記3回目です。とりあえず電気湯伝記シーズン1の最終回までのシナリオはおおかた完成しました。あとは突っ走るだけですが、どうにも足が攣ってしまい書き進められない日々が続きます。気合いだ!春よ来い。
 今回は、僕が長らく抱え続けた「住む場所を見つけることができない」というコンプレックスについて、つらつらと考えたり考えなかったりしたことを書いていこうと思います。どうぞお付き合いください。■


僕は「住む」ことができない

 僕は京島で生まれ、小学生のころに目白に移り住み、中学に進学するころには品川、高校を卒業する頃には電気湯のある京島へと生活の場を転々とし続け、小学校時代の一期間を除いては、地縁による共同体というようなものに所属したことがありませんでした。豊島区立目白小学校に通っていた僕の友人は、当たり前ですが学校の周辺に住んでいる人が多く、中学進学後も目白で頻繁に会ったり遊んでいたようで、(ありがたいことに)誘ってもらえはすれど同じまちに住んでいるという感覚をもたない僕にとっては、「地元」と呼べるようなものをしっかりと持ち共同体然としている彼・彼女らが大変羨ましかったことを覚えています。その「地元がない」というコンプレックスは、じきに「僕は住む場所を見つけることができないのではないか/僕は「住む」ことができないのではないか」という(個人的にとてつもなく)大きなものへと変わっていきました。■

 「住む場所をみつけることができない」というコンプレックスは、一見すると単純でくだらないようなもののように思えますが、僕にとってこのコンプレックスを抱えたまま生き続けていくことは、ずっと浮遊して何にも接続できないまま、座標が定まらないまま、自分が確かにここにいるのにどこにもいないような感覚が死ぬまでうっすらと影を落としつづけることを意味しています。これは結構しんどい。
 電気湯伝記#01にて、電気湯を継いだ理由をいくつか挙げましたが、正直なところ、上記のような心の奥底に潜み続けている「僕には住む場所がない」といったコンプレックスを解消すべく、「銭湯を営むことを通じて再び「住む」ことができるようになるのではないだろうか」とうっすら思っていたから、という理由も大いに(というかむしろ公的ではない理由としては最も大きな理由として)ありました。■

 さて、果たして「住む」こととは、「住む」ことができる場所とは、どんなものなのでしょうか。単にそこに滞在し、生活をするだけでは手に入らない「住む」という感覚とは、どんなものなのでしょうか。また、今まで「住む」ことを不可能にしていたものは一体なんなのでしょうか?「住むことができない」と強く感じていた僕が、このまちに「住む」という感覚を見出すことができたのは、一体なぜなのでしょうか?
 幼少期から続く「住む」という感覚の不在について注意深く観察していくと、都市に人口が集中し続けた帰結としての規格化された住空間と、その規格化を可能にする、かつて多様な質感をもちつつも今は分断されてしまった空間に根源があるように思えます。つまり、生活を営む過程で僕の手から「住む」ことがこぼれ落ちていったのではなく、あらかじめ「住む」ことの潜在能力が失われていたのだ、と。■


住むことの未来:Si-Fi映画にみる「住む」こと

 2050年までに世界人口の約70%もの人々が都市部に住む(2020年ごろは世界人口の50%強が都市人口)という背景を踏まえた現実問題として、住空間の工業化・規格化に支えられた都市の過密·高層化が今後も続いていくことは想像に難くありません。特に東京は、世界で最も人口の多いメガシティとして知られていますが、家賃が上がり、一人当たりの居住面積が狭くなっていく中で、我々は本当に「住む」ことができるのでしょうか?
 世に出されたSF作品の多くは、こういった過密から生じる様々な問題に対してある種のテクノロジーをもって克服しているような世界を描き出しています。その多くはおおかた似通っている都市景観を持っており、しばしば「やりすぎ」と感じられることもありますが、そのいくつかは、未来の都市空間で我々はどう住まうことができるの(もしくはできないのか)かという点についてかなり的を得ているといってもいいはずです。■

 2012年に公開された『ジャッジ・ドレッド(原題:DREDD)』は、核戦争の後の荒廃したアメリカ東海岸の都市「Mega City One」を舞台とするSFアクション映画です。この物語の重要な舞台となる高層ビルには内部で犯罪が起こったことを感知すると建物全体をロックダウンする機能があり、ひとたびそれが起動すると全住民が閉じ込められることになるのですが(恐ろしい)、このロックダウンを悪用されてしまったことによる脱出劇のような作品です。

(Redditより画像引用: Mega City (movie Dredd, 2012) and Night City

 この監獄のような統治と監視の建築のイメージは、ヨハネスブルグにあるPonte City Towerと恐ろしく似ています。パノプティコンを想起させるこの建築は、建設後まもなくギャングによって占拠されスラムとなり、都市の荒廃·腐敗のシンボルとなってしまいました。

(n+1 より画像引用: Ponte City, ANNA HARTFORD

 近代がどのように成立しているかを思索していた哲学者のミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』の中で、パノプティコンにみられるような監視システムは監獄だけではなく近代社会の隅々まで行き渡ってしまっていると指摘しています。人間を個人として捉えることで解体し、その個人を自治体·国単位で管理できるように統合することで監視システムは成立しました。こういった世界の行き着く先を、『ジャッジ・ドレッド』では鮮やかに描き出していたのです。■

 過密に対する解決策が、弱いつながりを解体するような帰結を招いてしまった都市を描いている作品も多くあります。代表的な『フィフス・エレメント(原題:The Fifth Element, 1997年)』と『マイノリティ・レポート(原題:Minority Report, 2002年)』では、都市を垂直に形成することで人口問題を解決しようとしていました。

(American Cinematographerより画像引用:Fantastic Voyage: Creating the Futurescape for The Fifth Element

 『フィフス・エレメント』の中で、採光や空気循環が問題とされる中、人々は上空を飛び回る交通機関を使い、孤立したポッドの中に住まう様子が描かれています。トム·クルーズがめちゃめちゃかっこいい『マイノリティ・レポート』では、『フィフス・エレメント』ほど荒廃しているわけではありませんが、都市そのものが交通機関のためのインフラストラクチャーによって形作られ、ポッド型の車両が全自動で目的地の部屋まで人間を運ぶ様子が描かれています。縦横無尽に動き回る交通機関は『フィフス・エレメント』と似ていますが、全く外に出ることなく「目的地の部屋まで」直接行けるという点で異なっています。■

(IMDbより画像引用:Minority Report

 都市空間が、他者と出会うことを許容し推進する余地を持たなければ、我々は一体どこで他者と繋がり、一体どこで見知らぬ誰かと生きることができるのでしょうか?多くのSF作品が未来の都市環境への想像を膨らますなか、悲しくも「この道しかない」とでも言うかの如く、その多くで描かれるスタンダードな都市空間は監視/管理・孤立/分断といった点で酷似しています。僕たちが「住む」ことに対する想像力を失ってしまったのは、僕たちの手から「住む」手触りが失われていったのは、いったいいつからでしょうか。■


近代化の先に

 現代の都市部では当たり前となってしまった「住む」ための装置としての空間の出自について考える際に、「近代建築の父」と呼ばれるル・コルビジェが打ち出した都市計画とその多大な影響は避けて通れません。彼が打ち出した近代都市のコンセプトは、我々が住まう環境・空間すらもを変えてしまいました。
 1920年代からのコルビジェは、人口増加と工業化で悪化の一途を辿るパリの都市を救うアイデアとして、「人口300万人の現代都市」(1922年)、「ヴォアザン計画」(1925年)、「輝ける都市」(1930年)といった都市プランを次々と考案します。それぞれ想定は異なりながらも、その核心(革新)たる彼の解決策は、都市を一掃し、機能別に分類分けされたエリア計画と幾つかのタワーによって都市を住みやすいものへと「浄化」するというものでした。(内容そのものとこの考案に至った都市計画的な流れについては、大都市政策研究所のこちらの資料が分かりやすいです。)■

(TOMORROW, CITYより画像引用:VILLE RADIEUSE: WHY DID LE CORBUSIER’S RADIANT CITY FAIL?

 この都市プランでは、居住区、商業区、娯楽地区、工業地区、主要な交通網などの都市機能をすべて分離し、一つの空間に与えられる用途を制限することによって調和と秩序をもたらすと主張されていました。また、環境汚染が進んでいたパリに住む人々のために開かれたスペースを設けることも重要視され、それぞれの小さなフットプリント(床面積?投影面積?分からない方はぜひググってください…)に多くの人口を詰め込むことによってそれが達成できるよう検討されています。■

 幸い(?)、この計画が実現されることはありませんでしたが、この(1)用途を制限・分離し(2)密度を上げていくという考え方は世界中の多くの住宅計画において採用されていきました。こういった都市機能の分離は、日ごろ目にするレベルでの「死んだ空間」を生み出すことになります。夜が更けた後のオフィス街の閑散とした感じ、日中の住宅地の気配のなさ、ほとんどの飲食店や居酒屋は特定の場所にしかなく、密集するように配置された商業施設の周辺は、特定の時間以外は近寄り難い雰囲気すら醸し出す。
 思慮深く検討された都市計画(か、もしくは奇跡的に構成されている伝統的な下町や村)では、多機能・多用途/用途の混合が推進・達成され、その路上は絶え間ない人の流れやさまざまな行為で溢れかえっています。こうした都市においては、(個人的な体験=サンプル数の拙い感想ですが)都市空間や「近隣」はもっと安全でもっと生き生きとしてくる傾向にあるように思えます。
 ですが、コルビジェが検討していた都市プラン等から派生していった都市空間では、こういった定量的に記述しにくい「生き生きとした感じ」は考慮されず、荒廃した空間が量産され、その荒廃した空間によって形成される都市の安全を保障するために、絶え間ない監視システムが採用されることとなります。■

(ArchiDailyより写真引用:Architecture Classics: Unite d' Habitation / Le Corbusier

 補足ですが、コルビジェは工業化や人口過密といった当時の時代の要請にしっかりと応えながらも、一方で代表作であるユニテ・ダビシオン(上の写真)の施設内に図書館や保育室など一定のコミュニティのための空間を用意していたりと、そこに住まう人々が地縁による共同体に所属できるようにという彼自身の配慮もしっかり表れています。悲しむべきは、コルビジェが生み出したプランそのものではなく、こういった「人間どうしがゆるくつながり合いながら住まうための空間」のための配慮が、現代の工業化・規格化された住宅の多くに引き継がれていかなかったことでしょうか。■


「住む/澄む」ことを可能にする空間

 いつか読んだ『ハイデガー全集』の中に、「人間が所属している諸領域のうちに家郷的に滞在することを、われわれは住むことと命名する」とありました。(自分のノートからの引用です。出典が思い出せずすみません。)
 つまり、あらゆる領域の近い秩序(地域/近隣、家族、友人など)などへ接続された生活が表象する「その地域らしさ(と言い表していいのか不安ですが)」への接続が、「住む」ことを可能にしているのではないでしょうか?
 前回も引用したルフェーブルは、個人主義の行き着く先が同質化していく集団であるとし、その同質性に抗い獲得された差異によって共同体が立ち上がるといった理論を説いていました。まさにいま、京島の活動家たちが都市開発・都市空間の均質化に抗い、それによって「京島らしさ」が再発見されていく過程のように、差異としての地域文化・土着的な所作が共同体を生み出すような、そういった差異を生産することができるような空間がいたるところに現れうる「小さな社会」の必要性を主張していたのです。■

 これを踏まえて上述の文章を言い換えれば、「その地域らしさ=生産された差異」への接続ができる空間=「小さな社会」は、「住む」ことを可能にする空間/社会であると言えるのではないでしょうか。どのまちに行っても「どこもだいたい同じ」な印象を受けざるを得ないこの東京において、僕に「住む」ことを可能にしてくれた京島というまちは、幸運にも、開発を免れた/開発を経ても生き残ってきた地域文化とそれを支える小さな社会の基盤を強く感じられるまちです。
 電気湯を継いでからというもの、「京島」というまちに魅了され、ご近所さんたちと会話をし、コーヒーを飲み、一緒に仕事をし、天気のことでお互いに一喜一憂し、すれ違いざまに挨拶を交わし、そこに住む人々と交わっていく過程で幸運にも「ここに住む」という感覚を得ることができました。■

電気湯の日常:大久保撮影

 岩波古語辞典に、「住む」は「澄む」と同根、とありました。 濁流のように動き続けた水が、 ある一定の場所に止まることで澄んでいく様は、 僕がこのまちで得た「住む」という感覚と重なり合います。 この銭湯を通じて、このまちを通じて、 ようやく「住む/澄む」ことができたのです。■

住居はいつでも、人間にとって心身のよりどころであり、自らの起源(祖先)との共同性の基盤でありつづけるのだから。

(檜垣立哉 編, 『シリーズ人間科学8 住む·棲む』, 大阪大学出版会, 2022年12月1日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?