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『ヒカリ文集』を読んで、純文学の醍醐味に思い至る

お笑い芸人で、最近特に好きなのが「ダウ90000」。男性4人女性4人の合計8人からなるユニットです。基本はコントですが、演劇のようなコント(本人たちは演劇と言われるのを嫌がっている風潮がある)で、物語性もあって、気に入っています。

そんなダウ90000はメンバーのほとんどが日芸(日本大学芸術学部)出身。そんな日芸の大先輩でもあるお笑いコンビ・爆笑問題のYouTubeに出演した際、こんな一幕がありました。

8人がぞろぞろ出てきて、自己紹介的なウォーミングアップをしている際、太田光さんが何やら探りを入れている様子。それを察して、ダウ90000主宰の蓮見翔さんが「いくら聞いてもセックスの話は出てこないですよ」と応じます。そうよねー、やっぱり気になるよね、そこ!

ってことで、本日の本題に入ります。松浦理英子さんの小説『ヒカリ文集』。この作品がとても良かったのです。

ある一人の女性と他の劇団員ほぼ全員が関係を持つ物語

描かれるのは、ある劇団における物語。なぜこの作品が冒頭の話に繋がってくるかというと、本作では劇団にいるある一人の女性と、ほかの劇団員がほぼ全員関係を持ってしまうという話なんです。しかも、男性、女性関係なく。そしてそのある一人の女性というのが、タイトルにある「ヒカリ」なる人物です。

本作は「文集」と書かれているように、彼女と関係を持った劇団員が一人ひとり過去を振り返る手記によって、作られています。

各々の手記を読んでいくと、ヒカリが悪女のような書かれ方はせず、どちらかというと寂しさを感じさせる献身的な女性を思わせます。読むほどに像を結んでいくかとそうではなく、むしろ「で、結局ヒカリって何者なんだ?」と分からなくなるほど。だけど、たしかにその時代、すぐそばにいたのが彼女だったのです。

ヒカリは一種の偶像なのか?

今は行方をくらましているヒカリは、一種の偶像のようにも捉えられます。今一つ本作を読みきれた感触はないのですが、それは読者であるこちら側が読むたびにまた輪郭を変えていくものなのかもしれません。

手記に登場する人物も、性別も境遇も今はバラバラなので、読者がこれから状況が変わるたびにまた違った見方ができそうです。

ちなみに、特に気に入った箇所を一つだけ引用します。小滝朝奈の章のラスト。

あたしは相変わらず自分に自信がないけど、ヒカリが「いとおしい。」と言い続けてくれた時期の安心感はよく覚えていて、気持ちが沈んで四方を靄に取り巻かれているように感じる時も、そう言ったヒカリの声音、手の温かさを甦らせれば、靄の向こうから陽が差して来る思いがする。あのことばが嘘でもほんとうでもどっちでもいいのだ。

『ヒカリ文集』本文より

純文学の醍醐味も感じる

本作はいい作品だけど、捉えどころがなく、感想を書くの難しいなーと思って、いろんな人の書評をネットで検索して読んでみました。すると、金原ひとみさんや佐々木敦さんなどが書評を書いていて、そんな読み方ができるのかとただただ感心するばかり。特に金原さんのは、すごいと感嘆しました。

こういった一流の作家の作品を、一流の作家や書評家がどう読みとるかを知れるというのは、純文学の醍醐味だと思います。さまざまな捉え方ができるからこそ、読み手の感性や人生観が投影され、表現されるのです。

僕自身、純文学を読むきっかけは、芥川賞受賞作だけでなく、選考会の講評を読んでいろんな読み方を学べたことでした。そんな小説好きの原点を振り返ることができ、良かったです。


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