
飢餓海峡という暗闇<対比>-③
冒頭に書いた飢餓海峡の小説を読み始めたきっかけは、3年ほど前で急に妻が読書に夢中になり水上勉の小説が読みたいと言い出したからである。
某書店(東京都内に本店を置く、名のある系列店だったが)に行くと、現代の若い人たちには受けにくいのか、水上作品は少しだけ申し訳なさそうに棚に並んでいただけ。これでは話にならない。そこで、思いついたのはネット音痴の妻に代わって、メルカリで出品を検索し購入すること。さっそく検索すると、古本と思しき水上作品がたくさん出て来た。そこに文庫本・飢餓海峡(上下)2冊も出品されており、他の小説と一緒に手に入れたという次第。

そんなわけで、小説・飢餓海峡は映画の感触を抱きつつ、活字の世界が後追いする妙な展開になってしまった。今、読み終えて感じることは、それぞれ色んな評価と意見はあると思うが、自分は率直に言って映画の方がベストで断然素晴らしいと感じた。ネットのウィキペディアによると、この映画の完成試写会で、作者の水上勉氏が感動のあまり涙し、内田吐夢監督にして「45年の私の映画生活中、最大の傑作」と満面の笑みを浮かべたと言わしめたように、映画の出来栄えは小説の域を超えた名作に仕上がっていると思う。
この作品の完成度の高さは、主役の三國連太郎、脇を固めた左幸子、伴淳三郎と、彼らの存在なしではありえないと自分は思う。この三人による絶妙な演技力がよりこの映画を秀作として評価を高めた一因だろう。
三國連太郎という役者は、どのような映画の役をやらせても存在感を際立たせる名優だが、この映画では小説の中にある通り、悪人と善人を見事に演じきり(化け切った)、彼の長身を活かした大男役、樽見京一郎&犬飼多吉が小説にある文脈と同様に描かれていると感じた。人間の内面に潜む善悪の葛藤をなに食わぬ顔で平然と演じきった凄さはまさに完璧であったと言える。
また、これまで喜劇俳優として存在感を放っていた伴淳三郎は、この作品で監督の内田吐夢氏に徹底的にしごかれ、悩みに悩んだ挙句、やせ細った老刑事役を見事に演じきった。その苦労が報われ、1965年毎日映画コンクール男優助演賞の栄誉を手にする。この作品では喜劇役者らしさを微塵も感じさせず、一市民刑事としての誇り一途な執念、生活感あふれる悲哀を見事演じきり、ここぞという主要な場面で役割を果たしたのではないか。
左幸子は、このような汚れ役は得意中の得意で、この作品の前年1963年には日活作品「にっぽん昆虫記」で似たような汚れ役を演じきり、ベルリン国際映画祭女優賞を獲得している。遡ると川島雄三作品の佳作「幕末太陽伝」でも娼婦役で異才を放った。それゆえに彼女とすれば、汚れ役はお手の物とも言えるのだろう。前半のシーンで、三國におにぎりを分け与える優しさ、それとは真逆に生活のためには体を売るのも厭わない、両極端な人間像をからっと演じる凄さはに脱帽である。

というわけで、「飢餓海峡」を映画と小説で比較すると、自分的には映画作品に軍配が上がることになった。
■第20回 毎日映画コンクール(1965年)
監督賞:内田吐夢
脚本賞:鈴木尚之
男優主演賞:三國連太郎
女優主演賞:左幸子
男優助演賞:伴淳三郎