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飢餓海峡という暗闇-①


ようやく水上勉の推理小説、飢餓海峡を読み終えた。
笑われるかもしれないが、足掛け約二年になるかもしれない。
読み終えるまでこんなに時間が掛ったのは理由があって、この小説はかかりつけ病院の待ち時間のみ利用して読んでいたからである。
どうしても日中は、やることが多すぎて、読書には時間が回らない。

「飢餓海峡」という小説は、1964年(公開は1965年)東映で映画化され初めて知った。
映画の完成度は高く、1989年文藝春秋社による日本映画アンケートでは、ベスト6位に輝いた名作である。監督は名匠・内田吐夢。
ご存じだと思うが、飢餓海峡のおおよその全体像は
「実際に同じ日に起きた洞爺丸事故と北海道の岩内大火をヒントに、時代を敗戦直後に置き換えて着想された。水上勉の代表作の一つで、推理作家から社会派の作家へと移行する時期の作品。戦後の貧困に喘ぐ時期を生きることになった多くの日本人の悲哀が、主たる登場人物に投影されている。」、とウィキペディアには載っている。

さて、ここから本題に入るが、少々長くなるので何回かに分けて投稿したい。
自分は、この投稿で(小説と映画について)、小難しい文字をいくつも並べ感想を述べるつもりは毛頭ない。感じたことをありのまま書くつもりでいる。
要は、「飢餓海峡」の中身を、「小説」と「映画」とで読み観比べ、それを対比させてみるつもり、それだけのことである。
先にも書いたが、「飢餓海峡」という映画の題名を知ったのは、遥か大昔の中学校ころだった。
何かと映画の世界に関心はあったが、あの頃は男性向けアクション映画にのみ興味を抱いていたに過ぎない。それを1964年ごろスポーツ紙の芸能蘭記事に載ったことで、東映が製作することを知った。
「飢餓海峡」という、タイトル名自体そのイメージからして、何かしら薄気味悪い作品としか正直思いつかなかった。おぼろげな記憶をたどると、東映側の宣伝「謳い文句」は、「W106方式」を盛んにアピールしていたように思う。その意味はまったく理解できず、シネマスコープ全盛期に何がどう変わるのかまったく意味不明だった。16ミリ云々とか、ネガフィルムがどうのこうのと書かれても、それがさっぱりわからずにいた。

そうこうするうち、師走になり東映映画の営業関係者と内田吐夢氏とが上映時間でもめている記事がスポーツ紙に載った。どうやら、天下の東映がお正月用の映画として公開するというのだ。ただ、二本立て興行を建前とする東映の封切館で、完全版「飢餓海峡」は上映時間長すぎるという。自分は、それよりも、このタイトル名の映画がお正月用映画に相応しいものなのか、その程度の興味でしかなかった。
この映画に関しては、当時の記憶をたどるとその程度の思いで、上映するにあたり色んな問題が含んでいる作品であることは理解できたのである。
 
それよりも当時、自分が一番に関心を示し、待ちこがれていたのはある日活映画だった。小林旭が、1964年中ごろ美空ひばりと離婚し、彼に同情が集まったのか、それからアキラの人気が再び上昇し、「さすらいの賭博師」が中ヒットを飛ばし、エンジンがかかり始めたのだ。日活は、これに乗じて年末に、「ギャンブラーシリーズ」の公開を企画し、ギャンブラーシリーズ第三作「ギター抱えたひとり旅」が公開されることになっていた。
アキラは、新設されたクラウンレコードに移籍し、その移籍三曲目の同名主題歌「ギター抱えたひとり旅」が、哀愁を帯びた曲調で大好きになり、レコードを買い求め映画の公開を待ちわびていたのである。
ということで、当時の自分にとって映画「飢餓海峡」は、その程度の存在価値しかなかったのである。
 

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