今日より、明日。場を通じて未来が少しでもワクワクする人を増やす社会を実現するために僕は場づくりをする。
「なんで君は大学に通っているの?」
今思うとその問いから僕のキャリアは始まったと思う。
5歳からサッカーを始めて進路の選択肢はずっとサッカーが軸だった。
高校で本気でサッカーをやることは区切りをつけることを決心して、兄が大学に行っていたり、周りが大学に行く決断をしていたので僕も漠然と大学に行く決断をして大学受験をすることにした。
良くも悪くもサッカーに縛れてきた人生で、勉強も部活を言い訳にしてこなかったのでせっかくサッカーを辞めたことでちゃんと勉強してみることにした。案の定、高校の成績が嘘のように大学では良い成績が取れるようになったが何かが物足りなかった。
そのままズルズルと月日が流れ学年が上がり、就職活動をどうする?的な
噂話を同学年から聞くようになった。
自分は一体将来何になるんだろうか。
大学を4年間通い、就職活動をする。誰かが決めた王道ルートのせいで勝手に将来に対して不安を抱かされ悶々とする日々。
今の生活の延長線上に未来は見えないなと思い、普段行かない場所に行ってみることにした。大学3年生の春、北海道、初めての一人旅だ。
北海道に来てからそういえば何しようと思った。
北海道に来たものの、宿も押さえてなければ金もない。
2月の北海道で雪が積もった夜道を歩きながら格安の宿を探した。
そこで出会った宿には外国人がわんさか居てここは日本かと衝撃を受けたののを今でも覚えている。どうやらゲストハウスと言われている宿らしい。
僕以外、外国人しかいないので、拙い英語で外国人と話すことになった。
勿論素性も知らない相手、ましては異国の人と話す際に何を最初にするかと言われれば、勿論自己紹介だ。
自己紹介をした際に、投げかけられた質問が
「なんで君は大学に通っているの?」だった。
大学に行こうと思った理由はない。考えたこともない。
漠然と周りが行っていたからだ。
ただ、話していくうちにいかに自分が進路に対しての決断に自分の意思がなかったのが話していくうちによく分かってきて虚しくなった。
彼の話を自己紹介を聞いてると内発的な動機で進路を選択している感じがガンガン伝わってきた。話を聞いてるこっちがなんだかワクワクした。
大学に4年間通って就職する?
この考え方が普通だと思っていた。
そもそもこの普通って誰が決めたんだ。
自分で進路を決断できないことを言い訳に世論が用意してくれた王道ルートに勝手にすがっていただけじゃないか。
そう考えた時に、若い時にどれだけの進路に触れられるかで、将来に対してもっとワクワクする選択ができるんじゃないか、という課題意識を自分の中で持つようになった。
その考えを抱いた時が僕の場作りのスタートだった。
場づくりとはそもそも何なのか?
場づくりって何なのかを考える前にコミュニティってそもそも何のかという疑問に辿り着く。
コミュニティの起源は、社会学者のマッキーヴァーが1917年に著書
『コミュニティ』の中で下記のように定義している。
・コミュニティ
共通の目的がなく、自然発生的につながる共同体
・アソシエーション
共通の目的を持ち、人為的に組織された団体
上記の内容を見て、社会人の家庭と職場の往復の考え方に近いなと感じた。
最近コミュニティと耳にするようになり、上記2つのコミュニティに該当するのかと考えると少し違和感がある。どうやら近年コミュニティと言われるのはスターバックスが言うような「サードプレイス」のことを指しているのではないかと考えるとしっくりくるものがある。
サードプレイスの提唱者であるスターバックスの言葉を借りるとサードプレイスとは下記のように定義している。
今までは家庭と職場の往復するのが当たり前だった考え方が、家庭でも職場でもなく3つのコミュニティがあるよ、と言う考え方が世間に広がった。
最近は「コミュニティを作ろう!」という記事などをよく見かけているが求められているコミュニティはきっとサードプレイスを指すのではないだろうか。
家庭と職場のコミュニティに比べてサードプレイスの違うところは、優先順位が高くないのに存在していることだ。
分かりやすく言うと「あったらいいな」そんなレベルのコミュニティだ。
別になくても誰も困りはしない。
ではなぜ、そんなコミュニティが求められるようになったのかというと
人間の欲求がその次元まで到達したからじゃないかと僕は考えている。
生きるためでも、結果を出して評価されるためでもない、自分らしさを段々と求めるようになってきた。
同じような情報や条件が溢れるようになった現代で、現代の判断基準は自分らしさ。でも自分らしさって意外と分からない。分からないから誰か言葉にした想いに「そうそうそれだよ!」「私も同じような悩みを持っていた!」と共感の輪が広がっていく。
サードプレイスは別に人生の中でなくても良い存在だ。
一方で存在したら人生が少しだけ豊かになる、そんな位置づけだと思う。
場づくりとはコミュニティ(サードプレイス)を新しく作ること。
コミュニティとは、結果的に共感によって集まったつながりの集積のこと。
という風に定義することができるのではないかと個人的に考えている。
僕達は自分が輝ける場所を探している
サードプレイスの台頭に伴い、生き方に選択肢が広がったように思える。
そもそも、家庭と職場で求められている価値が異なってくる。
・家庭では:存在価値→私はここにいて良いのだろうか
・職場では:提供価値→私は何ができるのだろうか
今までは家庭と職場の2つのコミュニティの考え方しかなかったので
2つのコミュニティで価値を発揮出来なかったら、居心地が悪かった人は多かったのではないだろうか。
そこでサードプレイスの台頭から、第3の選択肢が出てきた。
別に今の環境で馴染めなくても、サードプレイスだったら馴染めるかもしれない。
別に今の環境で評価されなくても、サードプレイスだったら評価されるかもしれない。
大切なのはサードプレイスへの入り口を持っているかどうか。
知っていると知らないの差はかなり大きい。
現に就職活動しか企業の入り方を知らなくて困っている学生が沢山いる。
知っているだけ他の選択肢で戦えるかもしれないのに、知らないと持っている手札だけで戦うしかない。人には向き不向きがあるが、手札が揃っていないと苦手なカードで戦い抜くことを強いられることになる。
現に僕はスーツを着て就職活動するのが嫌だったので就職活動をせず企業に入社したうちの1人だ。
普段関わるコミュニティの境界線を超えて、入り混じることができれば新しい進路への活路が広がるかもしれないのに、自分の知っている範囲の中ではそういうことでできる場所がなかった。
だったら自分が境界線を超えた出会いを提供できる場を作りたいと思ったのが大学4年生の時だった。
場を通して明日がワクワクする人を増やしたい
僕は新卒でマネージャーになり、飲食店という収益を確保しながらつながりを創出するためにはどうしたら良いか日々考える仕事をしたりしている。
仕事柄マネージャーなので自分が手を動かさず、いかに現場の人を動かせるのかというのが大事になってくるのだが、どうやったら人を動かせるのか最近になって段々と分かってきた。
それはビジョンを示せているかどうかだ。
コミュニティにとってビジョンは生命線。
ビジョンがあるから、関わる人のコミュニティに対する滞在理由が明確になり、日々発生する課題の優先順位が明確になる。
ビジョンを語れるとタスクをこなした先の未来を指し示すことができるので、人は目の前にタスクに対して納得感を持って作業に着手しくなる。
マズローの欲求5段階説を前提に話を進めるのであれば、人がコミュニティに残り続ける優先順位として5つの欲求が重なりが多いと長く居続けてくれるような気がする。
その核となる部分がビジョンだ。
ビジョンは3つの欲求を引き寄せる役割を果たす。
自己実現だけなら、他のコミュニティでもできるかもしれない。
稼ぐだけなら、他のコミュニティの方が稼げるかもしれない。
評価されるだけなら、他のコミュニティの方が評価されるかもしれない。
人の想いの数だけ、コミュニティが存在すると考えると選べるにはきちんとビジョンを言語化し、そのコミュニティが何を成し遂げるのか指し示す必要がある。
そうしないと簡単に人は他のコミュニティに移ってしまうし、
タスクの優先順位がつけられず不毛な時間を過ごし易い。
会社に入ってからずっと僕は場作りを通してどういう未来を実現したいのか言葉に出来ず悶々としてた。だから上手く人を動かすことが出来なかった。
ただ、最近になってようやく場作りを通して成し遂げたい未来が少し見えてきた気がする。
ビジョンを考える上で、良いビジョンの条件というものが分かってきた。
それは
・テンションが上がるか
・背負えるギリギリの範囲か
・社会課題につながっているか
・語尾が動詞か
である。
それを踏まえて、僕は人との出会いの数は人生の選択肢は広がると思っている。知らないと知っているの差は大きく、知っているだけで少し肩の力を抜くことができるかもしれない。
その選択肢を増やすために閉塞したコミュニティをもっともっと開いて境界線を曖昧にしていくことが必要だと考える。
その結果、人とのつながりを通じて未来がもっとワクワクするものになるかもしれないし、退屈していた毎日が明日からキラキラするかもしれない。
人動かす立場である僕は、一体場作りを通して何を成し遂げたいのか言葉にする必要があるなと感じた。なぜなら示さないと関わるメンバーを上手くマネジメントをすることが出来ないから。
原体験を振り返り、この仕事の先の未来を想像した結果、僕の個人としてのビジョンは
”カッケェ大人”への架け橋になることで、関わる人達の明日がもっとワクワクする社会を実現する!(仮)
と表現してみた。
これはあくまで個人のビジョン。僕はマネージャーなのでプロジェクトメンバー達と場ごとのビジョンを納得感出るまで話し合う必要があるがその前にまず個人のビジョンを語れるようにならなければならない。
もっと若い時に挑戦している大人に出会ってれば、苦労している時に自分が相手を肯定できるようにするためにも、自分がそんな生き方もあるんだ!と勇気と気づきを与えられるような存在にまずは自分からなる。
その決意表明としてカッケェ大人とちょっと抽象度高いけど自分の今後の
進路選択の判断基準として差し込んでみた。どういう大人になるのかは自分次第というメッセージも込めて。
場作りを通じて、色々な生き方、選択肢を提供したいと言っている自分が
大企業に入って安定した収入を得ていたら説得力に欠けるし、自分らしく決断した人生の先に何が待っているのか、自分の言葉で伝えられるようになるために、自分自身のキャリアで僕は実験しようと思った。
なぜならそっちの方がワクワクするから。
そんな想いを持って僕は川崎のビルの屋上で、日本橋で、東京駅近くで、
場という地球上の限られた面積を借りて、今日より明日がもっとワクワクする人が増える社会を実現するために場作りをしてる。