【30歳で起業】堀川の中高時代
長い闘いも終わり、何とか第一志望の私立駒場東邦へ入学します。
「やったー、やっと無限勉強地獄の終了だ!」と思う間もなく、今までよりもさらに平均レベルが圧倒的に高い競争社会へと自ら足を踏み入れていたことに気付くのにさほど時間はかかりませんでした。当たり前といえば当たり前で、駒東といえば学年の1/5が東大に進学、1/5が医学部に進学、その他一橋や東工大といった国立大多数、早慶が滑り止め、みたいな人の集まりです。とはいえ、体育祭に憧れようやっと入学できた喜びを噛みしめ中学時代がスタートします。私は実家が田園都市線のたまプラーザ駅というところでしたので、毎日1時間程度かけて超絶満員電車に揺られ通学。たまに電車の中で気を失う方が出るくらい当時の田園都市線は混んでいて、行くだけで一苦労でしたね。。
そんな私も部活に入ることになります。受験勉強中の息抜きとして少し手を出していた硬式テニス部に入部。大学時代に対抗戦をしたり、今でも家族ぐるみで仲いい友人なんてのもできました。とにかくもう人生初めての縦社会、5年生の先輩なんてもはや怖すぎです。(駒東では中一を1年生、高三を6年生と呼びます)今となっては普通の感覚ですが、中一ができることと言えば校外ランニング、筋トレ、球拾い、10分くらいの球出し練習、だけです。テニス部員が全学年合算で100人程度、コートはクレイ(土のコート)で1面だけ(笑)そりゃあ1年が打てる時間なんてあるわけがない。そんな中でも各学年に1曜日は朝練の時間が与えられます。開門から始業までの約1.5h、ここが一番の練習時間。7時前に校門に行き、開門と同時にダッシュで教室に向かいASAPでコートへ向かい、死ぬほど自由に球を打つ。この時間がとても記憶に残ってます。今もそうですが、人は好きなことであれば正直眠くても何とかなるっていうことを初めて実感したのもこの時ですかね(笑)
今もそうですが私はほんっとうに昔から負けず嫌いでして、同期の誰にも負けたくなく必死で練習したのは覚えてます。
駒東に入り一番実感したことは「上には上がいる」ってこと。小学校までは走れば一番、横浜市の選抜に選ばれるくらいでしたし、勉強も学年で一番、全国模試でも100位以内とか取れてましたし、いっちゃあなんですがクソ生意気なくらい大体のことが人並以上にできました。それが新しい門をくぐれば、テニスだって学年で上から5~6番、勉強なんて100位/240人中ぐらいがほとんど。井の中の蛙、湖を知る、くらいの感覚でしたね。ただ今思えば、こういう負けるっていう経験、感覚や才能で何とかならないレベルに身を置くことができた、というところが中学受験や駒東に入学した一番の意義ではないかと今では思ってます。
そしてGWも終わり、洗礼のごとくあのイベントが始まります。そう、体育祭です。私が駒東に入りたいと思うきっかけとなった行事です。駒東の体育祭というのは結構変わってまして、まず何より熱量が尋常じゃない。準備期間中は午後の授業が無くなり、全体練習になったり、親御様の力まで借りて準備を行う本当に一大イベントです。色は4色あり、赤・青・黄・白、1年生の時に背の順かなんかで割り振られた色と6年間向き合うことになります。色の責任はすべて6年生が持ち、練習メニューや応援団指揮などもすべて6年生が管理します。6年間もご一緒してれば色にも愛着がわくってもんです。ちなみに私は6年間白組でしたが、一度も優勝できませんでした(笑)
ご家族はもちろん、近隣の方も見に来るくらい面白い体育祭だと思います。
ご興味わいた方は動画や写真を是非Google先生で探してみてください。
1年生の時に、上裸にはっぴ、長下駄履いて竹刀もった6年生にどやされながら走り回った13歳が本当に懐かしい、めちゃくちゃ怖かったですけどね当時は(笑)ちなみに当然勝つのは1色、他の3色は敗者です。その敗北を作ってしまった責任は6年生にあります。その責任を取り、負けた色の6年生は学校の中庭で公開バリカン処刑で坊主にされます。私も漏れずに人生初坊主を経験、そこから受験へのスパートが始まっていくわけです。そういう最後の節目、という意味でも体育祭はやはり一番思い出深い行事です。
さてさて体育祭の話に熱が入りましたが、中高6年を通して私が特に頑張ったと思うことについて書きたいと思いますが、結論から言うと2個あってどっちも勉強じゃありません(笑)一つ目はテニス、特に自分が幹部代の高1~高2の期間。二つ目は正直に言いますが遊びですね(この色ガキが)
テニスは上述の通り、通常部活や朝練はもちろん親にスクールにも通わせてもらい、本当にやりましたね。幹部代では副キャプテンまでやらせてもらい、初めて大人数をまとめ育てるという経験をしたのはこの時だったんではないでしょうか。結構後輩の面倒見たりするの嫌いじゃないな、むしろ得意な部類かもって思ってましたし、大学や社会人になってもこの経験っていうのは結構いきているな、という感覚です。遊びに関してはとくに学校外の人間と遊びつるんでました。場所的にも渋谷の隣に最寄り駅があり、新宿らへんに出るのも15分くらいという、盛んな若人を堕落させるのにすごくちょうどいい位置に学校があったため、男女問わず本当に多くの人と遊びまわったのを覚えてます。駒東の中ではかなり珍しいくらい外部交遊が多かった方だと思います。特に中三くらいから高二くらいまではテニスと同じぐらいの熱量で遊びに悪さに恋愛に奔走したかなと。同時に親からはお叱りの言葉着々と増えていき、家の中を気まずい雰囲気に何度もしてしまったのはもはやいうまでもありません。お家が厳しかったのも相まって父とは絶望的な関係を構築、話すことは成績のことだけ、みたいな期間も結構ありましたね。今となれば、テニス部に死ぬほど打ち込んだことも、色んな人と関わり良い経験も悪い経験もしたことも、すべて今の私を構成とする要素になっているな、と思っています。
大学受験&浪人編に続く
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