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日本語にまでちょっかいを出したGHQ

「私」という漢字は当然、昔からあった。だが、
使われ方が戦後になって変わってしまった。

片山杜秀氏の週刊新潮の少し前のコラムに、
「私」の字が本来の使われ方で登場した。
今となっては、珍しい使われ方だ。

Facebookでは以前にも紹介したことだが、
「私」という漢字を分解してみると、
「禾」は穀物を意味し、
「厶」は自分のところに囲い込む、つまり
独り占めにすることを意味する。

「私」という漢字は、元々そういう
背徳的な行いを含意していた。

その「私」という文字が、一人称単数つまり
英語の「I」の意味で世の文面に
頻繁に登場するようになったのは戦後のことだ。

これは GHQ の仕業である。
GHQ は日本人の善良な社会性、善良な精神を
劣化させるために、われわれの言語にまで
ちょっかいを出した。

GHQ による、たった七年間の日本占領。
その間に占領政策として蒔いた色々な種が、
じわじわと日本人の心の中に浸透し始めるのは
彼らが日本を去ってからのことだと、
各界の論客の間で、最近良く言われるように
なってきた。

言葉には目に見えない力がある。

言靈(ことたま)
音靈(おとたま)
数靈(かずたま)

言葉の靈力を馬鹿にしてはいけない。
時が経てば経つほど、気づかぬ内に
じわじわと効いてくる。

GHQ の置き土産が、まるで増殖するカビの
ように心の中を少しずつ蝕んで行く。

「WGIP」で検索すると、あれこれ出てくる。

だから和多志は「私」を使いたくないのだ。

一方、「和多志」「和多久志」という表現も
昔からあったはずなのだが、いまだに
市民権を得ていないのは、画数が多いからか?

少し前に、某SNS上で、
「私のことを和多志と書く人は、ちょっと…」
という投稿を目にして、心がぐらついた。

どう思われようと構わないが、一人称単数に
「和多志」という三文字を使ったがために
書き残した文面にまで偏見を持たれるのは
気持ちの良いものではない。

わたし、僕、ボク、自分、小生、拙者、当方、
某(それがし)、わし、わい、わて、俺、俺様、
あたし、あたい、こっち、こちとら、筆者……

こうして眺めると、
自分を語ることの気恥ずかしさのようなものが
見え隠れする語彙が多いような気がする。

それは公共心、共同体意識の裏返しでは
なかろうか?

そういう精神をアメリカは恐れたのだ。
自分の命を顧みず突進してくる日本兵を
不思議に思い、アメリカ軍は心底恐れた。
その恐怖体験が、GHQ へと繋がった。

(日本人独特の公共心について、意地悪く
 「世間体や周囲の目を気にする愚か者」
 であるかのように揶揄する向きもあるが、
 公共心がどういう形で現れるかは、
 一人一人の器の大きさ次第だろう。
 公共心あればこそ、世間体も気になる。
 公共心の無い人間が、世間体を気にする
 ことは考えにくい。)

それにしても、日本語は表現が豊かで、
言葉の表情が豊かで、本当に選択肢が多い。

だがどれも、あまり気に入らない。
さしずめ「わたし」と「筆者」で行くか……。


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