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刑罰と無宗教〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、俺は刑罰と無宗教について述べる。

画像:https://unsplash.com/photos/xgAcJZRk9_8

1章 刑罰と無宗教

 俺の儒教系統の思考の規範 もしある主体が無宗教であるならば、その主体は刑罰を下す正当性を持っていない。

 もしある主体が無宗教であるならば、その主体は刑罰を下す正当性を持っていない。なぜなら、刑罰の正当性(善性)は宗教によって正当化される。言い換えると、ある刑罰が正当(正しい)のかはある宗教によって決定される。

2章 刑罰の善性の正当化

 俺の儒教系統の認識 宗教における善悪が刑罰の善悪を正当化する。

 宗教における善悪が刑罰の善悪を正当化する。例えば、イスラム系統の刑罰が正しいのはイスラム教における善悪によって正当化される。だから、イスラム教の中では、石打という刑罰は正当である。しかし、イスラム教外では、石打という刑罰は正当でない。

同様に、キリスト系統の刑罰が正しいのはキリスト教における善悪によって正当化される。だから、キリスト教の中では、死刑という刑罰は(人道に反するので)正当でない可能性がある。

例えば、日本国憲法はキリスト教系統の憲法である。その憲法における刑罰の善悪はキリスト教によって正当化されている。キリスト教外では、その憲法における刑罰は正当でない。

3章 背景

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