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人間的であることの善悪と動物的であることの善悪について〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、俺は人間的であることの善悪と動物的であることの善悪について述べる。俺らはある主体が人間的であることを善と判断する。しかし、俺はある主体が動物的であることを必ずしも悪いと判断しない。

画像:https://unsplash.com/photos/SVxeVueQKLc

1.0 人間的であることの善悪

1.1(儒教系統の善悪)
俺はある主体が人間的であることを善と儒教系統の善悪で判断する。

俺はある主体が人間的であることを善と儒教系統の善悪で判断する。または、俺らはある主体が動物から良い方向に区別されていることを善と判断する。

なぜなら、俺はある主体が人間的であることを東洋文明における礼に沿うと認識する。俺は礼に沿うことを善と判断するので、俺はある主体が人間的であることを善と判断する。

1.2(思考の規範)
もしある主体が東洋文明を形成するならば、その主体は東洋文明において人間的である。

もしある主体が東洋文明を形成するならば、その主体は東洋文明において人間的である。これが成立すると、仮定すると、東洋文明を形成するためには、ある主体が人間的であることは必要である。もしある主体が東洋文明において人間的でないならば、その主体は東洋文明を形成しない。

この状態は東洋文明における目的、東洋文明を形成することに反する。俺はその目的に反することを悪いと判断するので、その悪の原因になる「ある主体が東洋文明において人間的でない」を悪いと判断する。

2.0 動物的であることの善悪

2.1(人間観)
東洋文明において、俺らは人間を物質的なものと動物的なものと人間的なものと、またはそれらの組みと認識する。

東洋文明において、俺らは人間を物質的なものと動物的なものと人間的なものと、またはそれらの組みと認識する。または、俺らは人間を物質性と動物性と人間性の組みと認識する。

例えば、俺の認識では、西欧白人は人間を動物か、人間かで思考する。それに対して、東洋文明では、東洋人は人間を動物的なものと人間的なものの組み、またはそれらが入り混じったものと認識する。

2.2(善悪)
俺らはある主体が動物的であることを悪いと判断しない。

俺らはある主体が動物的であることを悪いと判断しない。もしある主体の動物性がその主体の人間性を破壊するならば、俺らはその主体が動物的であることを悪いと判断する。

2.3(思考の規範)
もしある主体が主体が動物的であることを悪いと判断するならば、その主体はその主体が人間であることを否定する。

もしある主体が主体が動物的であることを悪いと判断するならば、その主体はその主体が人間であることを否定する。なぜなら、上記では、人間は物質性と動物性と人間性の組みである。

俺はある主体がある人間が人間であることを否定することを無礼と認識する。だから、俺はその行為を悪いと判断する。従って、俺はその悪の原因となる「ある主体が主体が動物的であることを悪いと判断する」を悪いと判断する。

3.0 具体例

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