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選手の行為の責任は自由意志に本当に関係するか?〜卓球選手にサッカーの運動システムを押し付けること〜
現代社会では、自由意志の存在は社会的には仮定されている。なぜなら、自由意志は行為の責任に関係する。もし俺らが自由意志を持たないならば、その時、俺らは行為の責任を負う必要がないと考えられる。
しかし、この種の考えは真理であるのだろうか?以下では、俺は自由意志と責任について述べる。なお、人種や文明や宗教が異なるとき、責任に対する考えもまた異なると述べておく。西洋文明における責任は文字通りレスポンス(反応)に近いように見える。
1章 自由意志と(東洋的な)責任
自由意志と(東洋的な)責任:(東洋的な)責任は自由意志に無関係であるように感じる。
(東洋的な)責任は自由意志に無関係である。ここでは、俺らは東洋的な責任をきちんと言語化しない。例えば、卓球選手がサッカーのルールをサッカー選手に押し付けられたと仮定しよう。
その時、卓球選手は試合中に ラケットを持っていることの責任を負うべきであるのだろうか?サッカーでは、ラケットを試合中に所持することは悪い(レッドカード)。あるいは、もし卓球選手がサッカーのルールを強制されて、卓球選手が大規模な事故を引き起こしたならば、その卓球選手がその事故の責任を負う必要があるのだろうか?
俺の考えでは、たとえその卓球選手が自由意志による行為の結果としてその事故を引き起こしたとしても、サッカーのルールを押し付けたサッカー選手がその事故の責任を負う必要があるように感じる。しかし、西洋的な責任(レスポンス)では、卓球選手がその事故の責任を負う必要があるように感じる。
2章 明治維新の後の大和民族の行為の責任は誰にある?
俺の審判:明治維新の後の大和民族の行為の責任は西側欧州人と彼らの賛成者にある。
明治維新の後の大和民族の行為の責任は西側欧州人と彼らの賛成者にある。東洋人は卓球選手であり、西洋人はサッカー選手である。明治維新の後、西洋人はサッカーのルールを東洋人に押し付けてきた。
にも関わらず、西洋人は東洋人の行為の責任を東洋人に押し付ける。本来であれば、西洋人はキリスト教的な価値観を東洋人に押し付けたので、西洋人こそが東洋人の行為の責任を取るべきである。これは2回の世界大戦や朝鮮併合や日中戦争、真珠湾攻撃の責任は西洋人にある。
たとえ俺らが仏教をイスラエルやサウジに押し付けるとしても、イスラム教徒やユダヤ教徒は仏教的なシステムにおける行為の責任をとる必要がないことに似ている。同様に、たとえ俺らがキリスト教的な運動システムを押し付けられるとしても、俺らはそのシステムの中での行為の責任を取る必要はない。
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