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俺ら(katotoorera)の政治信条〜自動と自由と義務〜
以下では、俺は自動と自由と義務について述べる。俺らは地中海文明における自由主義を採用しない。
画像:https://unsplash.com/photos/09ZmZlejiHU
1章 世界観とその流れ
俺の認識 自動と自由と義務の流れは「自動→自由→義務」である。
自動と自由と義務の流れは「自動→自由→義務」である。物質の運動は自動的である。ホモ・サピエンスを含む動物の運動は自由である。人間の運動は義務(義務的)である。
まず初めに、物質的な世界が存在して、その世界における物質は機械のように自動的に運動する。次に、動物が生じて、彼らは完全には自動的でなく自由に運動し始めた。その結果、動物は爆発的に発展し繁栄した。最後に、人間が生まれて、彼らは完全には自由でなく義務的に運動し始めた。
物質の運動は(自動)である。動物の運動は(自動, 自由)である。人間の運動は(自動, 自由, 義務)である。物質の運動は一次元的であり、動物の運動は二次元的であり、人間の運動は三次元的である。
2章 東洋文明と義務
俺の判断 東洋文明では、俺らは(自動, 自由, 義務)という三次元的な運動を最も礼に沿うと審判する。
東洋文明では、俺らは(自動, 自由, 義務)という三次元的な運動を最も礼に沿うと(比較的に)審判する。礼に沿う(沿礼)は善である。だから、俺らは(自動, 自由, 義務)という三次元的な運動を善と判断する。
また、俺らは(自動, 自由)という運動を比較的に失礼、または礼に沿わないと比較的に審判する。現実的には、もしあるホモ・サピエンスが人間社会における義務を放棄して運動するとき、俺らはそのホモ・サピエンスの運動は失礼や無礼と審判する。
古代ギリシアでは、自由意志が人間の本質であると考えられた。けれども、俺らは自由意志でなく、「義務意志」をより人間の本質に近いと認識する。
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