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行為は善悪を間接的に表現するか?ウクライナとロシアの戦争〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、俺は行為は善悪を間接的に表現するか?ウクライナとロシアの戦争について述べるつもりである。

画像:https://unsplash.com/photos/2poGCn4I52Q

背景

 俺の儒教系統の認識 大和民族の一部は自己の善悪を表現しない状態で、ウクライナへと戦争に行った。

 大和民族の一部は自己の善悪を表現しない状態で、ウクライナへと戦争に行った。彼らはウクライナを善と判断して、ロシアを悪いと判断すると表現しないが、彼らは戦場へと向かった。

人々は彼らはウクライナを守るために、ロシアと戦うために、ウクライナへと旅立ったと感じている。しかし、大和民族の一部は自己の善悪を表現していない。だから、誰も彼らがウクライナを善と判断しているのかを知らない。

人々は彼らがウクライナ側に立って戦争しているので、彼らはおそらくウクライナを善と判断するのだろうと察しているだけである。しかし、たとえウクライナに関する問題、例えばネオナチが生じるとしても、彼らは「俺はウクライナを善と判断する」と表現しなかったので、彼らはウクライナにおけるネオナチも善と判断したと批判されない。

行為は善悪を間接的に表現するか?

俺の儒教系統の認識 行為は善悪を表現しない。言葉のみが善悪を表現する。

 行為は善悪を表現しない。言葉のみが善悪を表現する。たとえある主体がウクライナへと戦争に行くとしても、もしその主体が「俺はウクライナを善と判断する」と表現しないならば、その主体はウクライナを善と判断していない。

感覚的にも、もしある主体が何も言わないならば、その主体は矛盾や間違いを犯さない。その種の主体は矛盾を行為で回避しようとする。これは契約にも言える。もしある主体が何も言わないならば、その主体は契約違反を犯さない。

同様に、行為のみの主体は善悪に関する間違いを原理的に犯さないように見える。なぜなら、彼らは何も言わない。レッドカードが存在しない状態で、彼らは競技しようとしている。当然、たとえ彼らが何をやるとしても、誰も彼らの行為にレッドカードを出すことができない。

行為の前にすべきこと

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