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自然崇拝と自然否定〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、筆者は自然崇拝と自然否定について述べるつもり。筆者は自然を崇拝しない、かつ自然を否定しない。彼は自然信仰及び自然否定を悪いと判断する、かつ彼は自然な自然改造を善と判断する。ただし、証明は不明である。

画像:https://unsplash.com/ja/写真/78A265wPiO4

1.0 自然信仰

1.1(儒教系統の認識)
自然崇拝は自然を崇拝する行為である。

自然崇拝は自然を崇拝する行為である。自然崇拝は自然の存在や状態や運動それ自体を崇拝する。

例えば、神道には、神木が存在する。自然崇拝では、この神木の存在や状態が崇拝される。そのため、たとえその木が道路にはみ出して、交通を妨害するとしても、その状態がある種の善な存在や善な状態として崇拝される。

上記は病気にも言える。自然崇拝では、病気な状態もまた自然である。だから、病気である状態がある種の善な状態として崇拝される。病気という存在がある種の善な存在として崇拝される。

2.0 自然否定

2.1(儒教系統の認識)
自然否定は自然を否定する行為である。

自然否定は自然を否定する行為である。自然否定は自然な存在や状態や運動それ自体を否定する。

上記の代表的な例は西欧白人及び彼らの超人工性である。彼らはオセアニアやアメリカ大陸に不自然に住んでいる。なぜなら、白い肌は彼らの先祖が北に住んでいたことを暗示する。

にも関わらず、彼らは彼らの国家をアメリカ大陸に形成して、何の違和感も覚えない。さらに、彼らは土着の先住民の肌の色を否定したり、彼らは人種的な背乗りや民族的な背乗りを実行して、自然な民を否定しようとする。

例えば、彼らは自然な民の肌の色を違うと言って否定しようとする。酷い場合には、彼らは日本列島の自然な民を勝手に書き換えて、彼らは黒人や白人を自然な民、日本人(日本国民でない)にしようとする。

3.0 自然改造

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