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白人崇拝とは何であるのか?〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜
以下では、筆者は白人崇拝について述べる。ここでは、彼は白人崇拝を西欧白人崇拝と決定する。
1.0 白人崇拝
1.1【儒教系統の認識】
白人崇拝は崇拝である、かつある主体は白人の存在と状態と運動を正しいと考える。
白人崇拝は崇拝である、かつある主体は白人の存在と状態と運動を正しいと考える。または、白人崇拝は崇拝である、かつある主体は白人の存在と状態と運動を正しいと感じる。この白人崇拝は白人信仰と呼ばれているように見える。
例えば、白人が支配者をアメリカ大陸やオセアニアで当たり前のように担っている。白人崇拝者はこの白人の不自然な存在や状態や運動を何かおかしいと感じていないように思える。非白人崇拝者はその状態を不自然であり、白人帝国主義及び植民地主義の継続と認識する。
2.0 信仰と崇拝
以下では、彼は2種類の信仰を提示する。前者は実際に関する信仰である。後者は正しさ、つまり真理に関する信仰である。彼は前者を実際信仰と便宜的に呼ぶ。彼は後者を正しさ信仰と便宜的に呼ぶ。
2.1【儒教系統の認識】
信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象それ自体やその存在や状態や運動が実際的であると考える。
信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象それ自体やその存在や状態や運動が実際的であると考える。ここには、現象も含まれると仮定する。例えば、ある神を信仰するとは、ある主体がその神は実際であると考えることである。
2.2【儒教系統の認識】
信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象それ自体やその存在や状態や運動が正しいと考える。
信仰するとは、ある行為である、かつある主体がある対象それ自体やその存在や状態や運動が正しいと考える。例えば、平等を信仰するとは、ある主体が平等は正しいと考えることである。
上記の例は神木である。神道では、神木に対する信仰が存在する。この時、たとえ神木が道路にはみ出すとしても、神道はその神木を切断しない。なぜなら、神道では、神木の存在や状態や運動は善である。この時、存在に反する対象及びその存在や状態や運動は悪である。
その切断は神木の存在に反するので、悪である。だから、神木を切断することは悪い。
3.0 善悪
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