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内容と技術の順序

背景

儒教系統の認識 大和民族の技術者や学者が感じているのは、もし高い技術が存在するならば、素晴らしい何かが生じる。

しかし、この感情は事実でない場合がある。例えば、たとえ素晴らしい料理の技術があるとしても、アングロサクソンやゲルマン人はおいしい料理を作らないだろう。堅い技術が有用になるのは、イタリア人がその技術をもつ場合である。

これは日本でも同様である。俺は音楽と映画、ドラマの例をあげる。たとえば、日本国の映画やドラマは技術的に劣等なわけでない。しかし、日本国のドラマは本当に幼稚でくだらなく、見るに堪えない。ジャニーズやAKBのようなくだらない何かが登場する。

また、音楽に関しても同様である。英語を混ぜたり、カタカナを使用したり、音楽それ自体が幼稚でくだらない。それに対して、西欧白人の作る音楽は”センス”が良い。これはクラッシックが典型的である。

日本国だと、ポケモンやマリオは「技術力がほかの企業よりも優れていたので、ポケモンやマリオが登場した」わけでない。内容や発想(アイデア
が優れていたので、ポケモンやマリオが生まれた。

内容と技術の順序

儒教系統の思考規範 もしある主体が儒教徒であるならば、その主体は内容を技術の前に置く。

ただし、例外は次である。もしある主体が何かを形式的に作ることをとりあえず優先させるならば、その主体は技術を内容に優先させる。言い換えると、そのとき、その主体は形式を内容に優先させる。

上記は社会にも応用される。たとえある主体が高度な技術を持つとしても、もしその主体が自己の社会を持たないならば、その主体は異教の何かをたたえる建造物やテクノロジーを作ることになる。実際、西欧白人はセム人の父なる神をたたえる建造物や詩、曲や歌を作ってきた。

これは日本も同様である、たとえ大和民族が高度な技術を持つとしても、もし彼らが自己の社会や自己の神を持たないならば、その主体はLGBTや男女平等などの異教の考えを高い技術で実現することになる。

内容と技術の原因と必要

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