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東洋文明における自由意志の存在の仮定について〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

 以下では、俺は東洋文明における自由意志の存在の仮定について述べるつもりである。東洋文明では、俺は自由意志の存在を仮定する。

西欧文明では、この自由意志は人間の本質に関係する。さらに、この自由意志は契約や合意の善悪の正当性、または正当性に関する根拠を与える。

例えば、もしある契約が両者の自由意志によって結ばれたならば、その契約の善性は自由意志によって正当化される。

画像:https://unsplash.com/photos/NEJFAS1Okho

自由意志

 俺の儒教系統の認識1.1 俺は対象の自由意志を対象の非自動的な運動と認識する。

 俺は対象の自由意志を対象の非自動的な運動と認識する。このとき、自由意志の存在は非自動的な運動の存在に置き換えられる。つまり、この世界には、非自動的な運動が存在するのかが自由意志の存在に置き換えられる。または、次がある。

 俺の儒教系統の思考の規範1.2 もし非自動的な運動が存在するならば、自由意志が存在する。

 もし非自動的な運動が存在するならば、自由意志が存在する。この場合、自由意志は力のような何かであり、その力が非自動的な運動を引き起こす。時間的な流れは「自由意志の存在→非自動的な運動」である。

儒教系統の認識

 俺の儒教系統の認識2.1 俺は非自動的な運動を認識する。

 俺は非自動的な運動を認識する。または、俺は非自動的な運動の存在を認識する。このとき、上記の認識1.1により、俺は自由意志の存在を認識する。

例えば、俺は次を認識する。ホモ・サピエンスの運動は非自動的である。哺乳類の運動も非自動的である。それだけでなく、脳を持つ動物の運動は非自動的である。俺の印象では、次が成り立つ。

俺の儒教系統の思考の規範2.2 もしある主体が脳を持つならば、その主体は非自動的に運動する。

 もしある主体が脳を持つならば、その主体は非自動的に運動する。または、もしある主体が意識を持つならば、その主体は非自動的に運動する。ただし、その主体の運動の全てが必ずしも自動的でない。

だから、次の方がより正確であるかもしれない。もしある主体が脳を持つならば、その主体の全ての運動は必ずしも自動的でない。

認識の優先法

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