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俺ら(katotoorera)の政治信条〜お金について〜

 以下では、俺らは東洋文明におけるお金に対する俺らの認識を提示する。俺らはお金を富の一種であると認識する。現時点では、俺は下記の認識を東洋文明における善悪(礼や陰陽一体)から正当化できていないように感じる。

画像:https://unsplash.com/photos/lhltMGdohc8

1章 お金と必要性

 俺らの認識:俺らはお金は社会に必要であると認識する。

 俺らはお金は社会に必要であると認識する。言い換えると、お金は「必要対象(必要物質)」である。必要対象には、数学や科学、そして水や資源が存在する。当然、土地も必要対象(必要物質)である。

キリスト教では、お金や富(正確には、お金貸し)は汚いものと歴史的に認識されているように見える。けれども、東洋文明では、俺らはお金に対するこの種の認識を採用しない。俺らはお金を必要な対象と認識して、かつ文明的な対象の一種とも認識する。

例えば、運動競技システムにおける運動選手はそのシステムの「必要対象(必要物質)」である。けれども、優秀な選手彼ら自身はシステムそれ自体の原因でない。当然、彼らに払われるお金もシステムの「必要対象(必要物質)」であるが、システムそれ自体の「原因」でない。

2章 お金と原因

 俺らの認識:俺らはお金は社会の原因でないと認識する。

 俺らはお金は社会の原因でないと認識する。口語的には、俺らは人間社会の原因をお金と認識しない。だから、たとえ俺らが大金を用意するとしても、俺らはその大金が人間社会の原因になる、つまり人間社会それ自体を形成しないと認識する。

これはたとえ俺らが水や土地、お金を用意するとしても、俺らが素晴らしい建築や言語や善悪を作れないことに似ている。なぜなら、建築の「原因」や言語の「原因」、そして善悪の「原因」が存在しない。人間社会の原因が存在するとき、水や土地、お金は人間社会の「必要対象(必要物質)」になる。

実際、日本国は富裕になったけれども、日本語は不要なカタカナ用語で崩壊しつつあり、日本国の景観もめちゃくちゃである。加えて、俺らは和服でなく、意味不明な洋服をきている。おそらく、この理由は自己の人間社会の原因が失われたからである。人間社会の原因がなく、必要物のみになった結果として、この種の人間社会の崩壊が生じた。

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