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裁判は他人を訴えるためにあるのか?他人をこたしめるためにあるのか?

【小まとめ】
(1)裁判は第三者による社会的審判の形成のためにある。
(2)裁判は公的な共通認識や共通判断の形成のためにある。
(3)社会的な審判は社会的な経験になる。

現在、誹謗中傷とされる行為による開示請求や裁判の訴えが頻発している。一部の人々は「〜さん、やっちゃって下さい!」や「ざまあ見ろ!」と言って、開示請求や裁判を処刑のような娯楽として消費している。

俺がこの種の平民を見るとき、俺は強烈な違和感を覚える。そして、俺は裁判とは何のためにあるのかと疑問に思う。以下では、俺は裁判は何のためにあるのかを提示する。なお、下記は俺の独断と偏見である。



【社会的審判の形成】

裁判は第三者による社会的審判の形成のためにある。言い換えると、裁判は社会形成のためにある。裁判はムカつくやつを懲らしめるためにはない。または、裁判は公的な共通認識共通判断の形成のためにある。

例えば、西欧白人はモンゴロイド人種を差別主義者と侮辱する。この時、俺は西欧白人がモンゴロイド人種を差別主義者と呼ぶことを「侮辱」と認識する。しかし、西欧白人は侮辱と認識しないかもしれない。また、その白人は侮辱と認識させないようにしたいかもしれない。この時、認識に関する違いが生じる。

だから、俺は訴える。なぜなら、俺は西欧白人が差別主義者と呼ぶことは侮辱であるという共通認識を日本国において形成したい。この時、第三者による社会的審判が必要になる。それが原初的な裁判である(と解釈することができる)。

また、俺は西欧白人が差別主義者と呼ぶことを悪いと判断したい。しかし、上記と同様に、西欧白人はその呼びを悪いと判断させないようにしたいかもしれない。この時、認識に関する違いが生じる。

だから、俺は訴える。なぜなら、俺は西欧白人が差別主義者と呼ぶことを悪いと判断するという共通判断を日本国において形成したい。この時、第三者による社会的審判が必要になる。それが原初的な裁判である(と解釈することができる)。

まとめると、ある主体が何らかの共通認識や共通判断を形成したいとき、その主体は第三者による社会的審判を必要とする。なぜなら、相手はその主体の個人的な認識や個人的な判断を往々にして否定しようとする(肯定すると、損害に関する埋め合わせが必要になる)。


【社会的な経験】

社会的な審判は社会的な経験になる。言い換えると、第三者による社会的審判は社会的な経験を形成する。これは事実というよりも裁判の(理想的な)あり方であるかもしれない。

例えば、上記の例を用いると、西欧白人が差別主義者と呼ぶことは侮辱であると審判された。この時、その行為が侮辱であることは社会的な経験になる。そして、構成要因はその認識を共通認識とする。つまり、共通認識が第三者による社会的審判によって形成された。

同様に、西欧白人が差別主義者と呼ぶことを悪いと判断された。この時、その行為が悪いことは社会的な経験になる。そして、構成要因はその認識を共通判断とする。つまり、(善悪の)共通判断が第三者による社会的審判によって形成された。


【科学と裁判、経験主義】

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