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俺ら(katotoorera)の政治信条〜東洋文明における労働観について〜
多くの宗教は独自の労働観を人々に与える。例えば、日本列島では、キリスト教における労働観は「労働は苦役である」と考えられているらしい。以下では、俺らは東洋文明における労働観を提示する。
画像:https://unsplash.com/photos/WJ47ZR2kuY8
1章 社会形成型労働観(社会創造型労働観)
社会形成型労働観:俺らは "自己" の社会システムの形成を社会における労働よりも優先する。
俺らがカタカナ用語や崩壊する景観を見る時、俺らはなぜ戦後の日本人は一生懸命労働してきたのに、俺らは崩壊した日本社会に接触するのだろうかと感じる。たとえ俺らが一生懸命労働するとしても、もし俺らが自己の社会を形成することができないならば、その労働は無意味であったように感じる。言い換えると、自己の社会があってこそ、やりがいのある労働が生じてくる。
たとえ西アフリカ人が白人が授けた運動競技システムで一生懸命労働するとしても、もし彼らが自己の社会を作れないならば、白人の社会システムの維持のための彼らの労働や富の蓄積はある種の虚しさを持つ。そして、西アフリカ人の、あるいは多くの有色人が持つ西側白人に対する「白人コンプレックス」は労働では解消されない。西アフリカ人が健全な自尊心を持つことができる時とは、西アフリカ人が彼ら自身の社会を彼ら自身で形成できた時である。
個人的な印象では、人間が労働に喜びを感じるのは、その労働が自己の人間社会の形成に結びつく時のみである。俺らが自己の社会システムを形成する。その後、俺らは自己のシステムを維持したり、自己のシステムをテクノロジーで拡張したりする必要がある。この時、喜びある労働、または自尊心を与える労働の需要が生まれる。
2章 労働と社会システム
俺の認識:労働それ自体は社会システムの形成を促さない。
労働それ自体は社会システムの形成を促さない。だから、たとえ俺らが一生懸命労働するとしても、その労働は日本国における社会システムを形成しないだろう。その具体例として、カタカナ用語の氾濫による日本語の崩壊や富の規範の欠如による日本国の景観の崩壊が挙げられる。
大和民族の労働者も富裕層も自己の社会システムそれ自体を形成できないので、彼らは白人に彼ら自身の社会を授けられないと何もできないように見える。この状態は上記の西アフリカ人の運動選手と同じである。西アフリカ人の運動選手の天才的な運動の届く範囲には、社会形成それ自体が存在しない。
だから、たとえ西アフリカ人が一生懸命労働するとしても、彼らは救われない。だから、たとえ西アフリカ人が白人に授けられた運動競技システムの中で一生懸命労働するとしても、彼らは彼らの自己の運動競技システムを彼ら自身で形成できない。労働という行為が届く範囲には、社会の形成は存在しない。
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