なぞのギフトカード配りおじさんの興亡
人の不幸を喜ぶのはよくない。
よくないが、知らないうちにやっている。
危なっかしい人がいる。
実際に、危ない目にあえ!と心のどこかで願っている残酷な自分がいる。
業の深いことである。
私にはかつて、とある趣味があった。
それは、無課金勢にギフトカードをプレゼントするということだ。
これを私は「悪魔の慈善活動」とよんでいた。
ちなみに、無課金勢とは、スマホゲームを無料の範囲内で遊んでいる人のことだ。
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プレイヤーが、スマホゲーム内でお金を払うことを「課金する」という。
主述が逆転している。
ふつう、課金というのは「誰かにお金を請求する」という意味だ。
「スマホのプレイヤーが課金する」だと、本来は、プレイヤーがゲーム運営会社にお金を請求することになる。
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クルマ界隈でも、買ったクルマを持ち主が引き取る行為を「納車する」という人がいる。
車を納めるのは販売代理店だから、「納車される」が正しいのではないだろうか。
こういう居心地の悪い使われ方をしている言葉は、たぶんたくさんあるのだ。
歴史上、普遍的に繰り返されてきたのかもしれない。
とすると、言葉の主語と目的語が入れ替わる現象、すでに名前がついているのではないか。
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ゲーム会社は、スマホゲームを商売でやっている。
お金を払ってもらわないと売上がたたない。
開発・維持にも多額の投資をしている。
無料はあくまでも入口である。
お金を払うとこんなことができますよ、あんなこともできますよ、とプレイヤーをお金払いコースに誘惑していく。
そういう、お金払い誘惑が満ち溢れた世界で、無課金勢は戦っているのだ。
意思が強くないと、無課金勢ではいられない。
尖った山の頂上に立っているみたいに、不安定な状態でなんとかふんばっている無課金勢も多い。
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そんな無課金勢にギフトカードを渡す。
彼らはギフトカードを使って課金する。
ゲームがものすごく便利になる。
つよい武器が手に入る。
無課金勢が快楽を知るのだ。
どうして無課金のままでいられようか。
こんな目論見があった。
私はギフトカード配りおじさんとして、熱心に活動してきた。
平和な無課金勢を課金地獄にたたき落とすために。
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実際のところ、ほとんどの無課金勢はギフトカードを受け取らない。
また受け取っても、無課金勢のままである。
人々は意外とまともな金銭感覚を持っていたのだ。
こうして「悪魔の慈善活動」は失敗したのだった。
なぞのギフトカード配りおじさんは消え、街に平和が戻った。
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私は倒れた。
だが、皆の心から課金への欲望が消えない限り、私のような悪魔は何度でも蘇る。
無課金勢よ、せいぜいそれまで楽しむがいい。
ふはははは。
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