僕と部屋をつなぐもの。
新居に引っ越して10日と少し。なのだけれど、すでに1ヶ月以上暮らしているような錯覚に陥っている。そりゃそうか。自分がこう暮らしたい、という希望に合わせてこしらえてもらったのだから。自分と空間のフィット感がハンパない。必要十分な部屋の機能と、あって欲しいと思うところにちゃんとある電源類。部屋に合わせて住む、のではなく、自分に合わせた部屋に住む。うむ、端的に最高だ。
で、そんな自己満足な前置きはさておき。今回の引越しで気になったことがあって、それは荷物を運び出したあとの元住まいの空虚さというか、喪失感だ。
これを感じるのは2回目で。昨年、名古屋のマンションを引き払う時にも同じような感覚があった。その部屋に住んだ期間は約5年。上の子が生まれてすぐに引っ越した。この部屋で、僕は2度転職をして独立した。下の子どもが生まれた。思い出はアルバムいっぱいにある。
そんな部屋から荷物を引き払い、からっぽの部屋に寝そべってみた。
フローリングが冷たくて気持ちがいい。天井、こんなに高かったんだ。すげー明るいな。そして唐突に、ここに自分の居場所がないことを理解した。確かに僕はここにいるけれど、もう、僕の部屋じゃない。ああそうか、自分の居場所というのは、自分の持ちモノと限りなくイコールなのか。自分と場所をつなぐ媒介だったのかと知る。
部屋を出るとき、僕は自然に頭を垂れた。それは暮らした場所への感謝もあったけれど、がらんどうになった空間がどこか侵してはならない場所に思えて、そのなにかに敬意を払った行為だった。持ちモノと一緒に、僕は出ていく。余所者は遠慮しなくちゃね。
さて、最近いろんな場面でモノの価値が見直されているように感じる。感情的な価値としては、作り手の想いとか、社会的な意義が見直され、機能的な価値としてはよりシチュエーションや用途に特化しているように思う。モノがより多義的な価値を含み出した。その流れを、一義的な広告や流行に踊らされるのではなく、自分の価値観でモノを選ぼうよ、という空気が後押ししているんだろう。
その風潮を深読みすれば、「あなたは何者なのよ?」と常に突きつけられる社会に生きる僕らが、この世界に自分の居場所をつくるための手段としてモノを選んでいるようにも思ったりするわけで。そう考えると、いかにもイマ的なお店のオーナーが、どこか思想家に見えるのは必然なのかもしれないね。
さ、今日は日曜日。各務原はいい天気です。買いものにでもいこうかしら。お気に入りのモノが見つかるといいのだけれども。