好きなことで褒められたい。
つい先日のこと。本好きの長女がお風呂でこう言った。
「かあやんがほめてくれるから、図鑑をよむのがすき!」
うちの子たちは僕らのことを、とおやん、かあやんと呼ぶ。パパママが妙に気恥ずかしくて。ガラじゃないの。ま、それはどうでも良くて。
褒めてくれるから、図鑑を読む。というところに、少し立ち止まってしまったわけです。あれ、褒めまくってよかったっけ?って。
我が家は、別に褒めて育てようという教育指針は定めてないけれど、よく褒める家だと思う。起きたら褒め、食べたら褒め、着替えたら褒め、靴を履けたら褒める。かわいい子どもたちだから、褒めることになんの抵抗もない。褒めてうれしい、褒められてうれしい。いいじゃないか。
でもそこには、彼女たちを何とか前向きに動かそうとする、大人の打算が混じっていることも紛れもない事実で。それが目に見える形で出てきたのが冒頭の話なのかと思う。
褒められるから、やる。
なんだか不自由な感じがするね。と同時に、僕ら大人もそうかもな、とも思った。
振り返ってみれば、僕は誰かに褒められる方に歩いてきた気がする。
一番最初の記憶は、小学校の標語コンクールで小さな賞をもらったこと。国語の時間に朗読をほめられたこと。現国の成績がよかったこと。そして気がつけば言葉の仕事に就いている。これは自発的なものなのか。日光にツルを伸ばすヘチマのように、誰かに褒められたくて進んだのか。
どうだろうね。
褒められることが嬉しいことは間違いない。でも、その行為自体が好き、ということも大きく関係しているんじゃないかな。
だって、僕は新卒でコピー機を売る営業マンだったけれど、名刺を増やして褒められて、売上を出して褒められて、宴会芸をして褒められても、まったく嬉しくなかったし、結局1年で辞めちゃったもんね。
好きなこと & 褒められる
このコンビネーションが人を強く動機付けするのだろう。
そこから、もう一歩踏み進んでみる。好きなことってなんだろう。
辞書的な定義はさておき、僕がどう思っているかと言えば、好きなことと、向いていること、は限りなくニアリーイコールだ。向いている、というのは才能があるということではなく、意識と身体が文字通り対象に“向いている”ということだと思っている。
片手間じゃなく、よそ見じゃなく、ついでじゃなく、誰かに言われたからじゃなく。自分のぜんぶで向き合えること。それが、僕にとっての好きなことだ。
この意味での好きなことは、続けていくうちに自分と対象は近づいて、いつしか同化していくように思う。すると、それを褒められるということは、まるで自分を丸ごと褒められたような、そんな喜びを伴うのではないか。
呼ぶ声にも気付かず図鑑を読みふける長女を見ながら、彼女は本を読むことにちゃんと向いているんだな、なんて思いながら、僕が今向いていることってなんだろう、何を褒められたら一番嬉しいのかな、なんてぼんやり考えている。
自分で自分を褒められれば十分、という成熟した人もいるけれど、やっぱり僕はまだ、誰かに褒められたいなぁ。